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「今、好きな人がいるんだ。それに、その人とは将来、ずっと一緒にいるって
気がするから。だから、お父さんは何も心配しなくていいんだよ。先輩の時は
そんなの、感じなかったから」
照れ臭そうに小さく笑うと、楓はおもむろに立ち上がった。
「少し眠るね」
取り残された麻木はしかし、不思議な心地だった。何をするでもなく、ただ、
買って来たおにぎりを食べ、お茶を飲む。楓がろくにパン一つも食べないで、
席を立ったことは不満だった。それに随分、昔の話とは言え、奇妙な名を持つ
女がどんな理由で楓をふって、傷付けたのかも気懸かりで、彼女の行為が不快
だった。だが、今、好きな人がいると言われた、その予想外の出来事一つで、
麻木は最近の暗い、どうにもならない迷路から一息に抜け出せたようなそんな
気がして来ていた。
好きな人がいる。それは何より嬉しい告白なのではないか? その一言で息子
の心は当たり前に育ったのだと素直に喜ぶことが出来る。心の具合を心配する
必要はなかったのだと安堵も出来る。まともに成長していた。そう思うだけで
正直、涙ぐみそうになった。つまり、今、ここさえ、乗り切ることが出来れば
いい。そうすれば、どうやら自分も息子夫婦と孫達とに囲まれた、にぎやかな
一時を過ごすことが出来る。
夢が叶いそうだ。
安堵し、満足までも覚えた。犯人さえ、逮捕出来れば。それがどれほど困難な
ことか、せめて今だけでも忘れたかった。この満ちた朝に浸っていたかった。
一時の幻、断片でもなければ、この頃は到底、耐えられない緊張の日々だった
のだ。

 麻木は半日足らずの静養を終えた楓を送りがてら、もう一度、彼の住まいを
訪れた。久しぶりに一緒に食事でもしようと買い物を済ませ、白いマンション
の玄関をくぐる。出迎えた小岩井は麻木と楓が一つずつ、手に提げたスーパー
の袋が気に入らなかったらしい。彼は僅かに眉根を寄せた。
「お帰りなさいませ。おっしゃって下されば、いつでも、何でもこちらで代行
させて頂きますのに。是非、御利用下さいませ。人目に付いて大変でしょう」
麻木も昔、一度や二度は心配した覚えのあることだが、楓本人は拍子抜けする
ほど無頓着で、どこでも無防備に出歩いた。
「大丈夫ですよ。僕、目立ちませんから。万が一、気付かれても、誰も寄って
来ませんしね。噛み付かれると思われているらしいから」
楓は冗談とも本気ともつかないことを言う。あの気味悪いポスターの効用なの
だろうか。確かに人目は集めるものの、誰一人、近付いては来なかった。
そうだ。
麻木は一つ、思い付く。そう言えば、楓に張り付いていた変質者共は皆、楓の
素顔を知る機会に恵まれていた。歌手としての一面しか知らないファンの領域
にいたわけではなかったのだ。そして、それは何らかの手掛かりにはならない
ものだろうか? 無機的なイメージを持つ、ポスターの中の歌手、麻木 楓を
好きだと思うことと、植物好きののんびりやを好きだと思うこと。その差違は
何をもたらすのだろうか? 決して、同じではない。麻木にはそう思える。
某かの意味があると思うんだが。
麻木にはのんびりと構えた楓の横顔からは何も見て取ることが出来なかった。
だが。とても同じ人間だとは思えないくらい違うよな? だったら、何か意味
があるんじゃないのか?

 

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