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「そうだ。僕に電話、ありました?」
「はい。今井様と土田様から一度ずつ。明日もゆっくりお休みになって、それ
からお電話を下さいと仰せでした」
「そうですか。ありがとう」
今井。麻木は小太りの事務所社長を思い出す。まだ若いのにえらくぽっちゃり
とした男だった。彼と出会ったがために楓は歌手になった。多少の恨めしさと
共に彼の容姿を思い出す。
今更、とやかく言うことでもないが。
恨みがましい不服を呑み込みながら麻木はエレベーターに乗り込む、その傍ら
で、楓は大きく息を吐いた。随分、だるそうだ。
「せめて、一週間は休んだ方がいいんじゃないのか? 一日二日じゃ、とても
回復しないだろう?」
日中、自宅では眠りっぱなしだった。夕方、家を出る頃になり、ようやく楓は
目を覚まし、起き上がったのだ。到底、回復しているとは思えない。
「まち子の店でだって」
「撮影の直後だったからだよ。あれって、結構、疲れるものだから」
「疲れが取れ難いっていうのは」
楓は麻木に最後まで言わせなかった。
「わかっているよ。だけど、二日休むのだって大変なんだよ。どうせ、ツケを
払うのは僕なんだし。絶対、今日中に回復するから大丈夫」
楓は一息にそう言って、弱いため息を吐くと、抱えている紙袋に顔を埋めて、
一休みする。どう見ても満足な回復を遂げた様子ではなかった。しばらくその
まま、じっとしていたが、その内、ゆっくりと顔を上げ、いつも通りの穏やか
な笑みを浮かべて見せた。
「心配しないで。病院にはちゃんと行ったし、正常だって言われたよ。本当に
大丈夫なんだから。社長は心配性だからね、二言目には病院に行けって言うん
だよ。自分が行けばいいのに。あれ、絶対、脂肪肝だよね」
麻木は楓の作り笑いを見据えてみる。昏倒した姿を見てしまったからか、どう
したって無理をしているようにしか見えない笑顔がそこにある。
「これだけ言っても、まだ心配なようだったら、診断書を提出するけど?」
いたずらっぽい調子で楓はそう言った。
「本当に、大丈夫なんだな?」
「うん。身体じゃなくってね、気持ちが疲れているんだって。仕方ないよね。
大学出てからずっとこんな仕事しているんだもの。三十六って、そろそろ辞め
時かなって、周囲が思い始める頃だし。自分でも事務所に代わりが出来たら、
辞めてもいいのかなって思ったり、他にすることもないなって思い直したり。
時々、わけがわかんなくなるんだよね」
「すまんな」
「どうして、お父さんが謝るの?」
「犯人の目星さえついていないからだ。おまえに余計な心労をかけているから
な」
「ああ」
楓は僅かに苦笑いしたようだった。
「僕、そんなことでストレスなんか感じていないよ。だって、死ぬ予定なんか
未だ、入れていないから。関係ないじゃない?」
「何を言っているんだ? おまえが予定していなくたって、向こうが」
「だから、死ぬ予感がないから大丈夫だって、そう言っているのに。僕、子供
の頃はね、このまま、ずーっと死ななかったらどうしようって、本気で悩んで
いたくらいなんだよ。お父さんがいなくなった後、一人で生きていたって困る
だけだって。誰も知っている人がいない世界なんて、怖いばっかりでしょ? 
そんなの、困るなって」
 麻木は呆気に取られていた。通常はまず、自分が死ぬことを恐れ、心配する
ものだし、誰でも“父親が先に死ぬ”と決め込んでいるものだ。
こいつは、、、。

 

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