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小鷺は勧められて、だが、さすがに躊躇した。
当然だな。初対面の人間の家にいきなり、ドカドカと上がれるもんじゃない。
大体、勧めないだろう、普通。
この男は自分の置かれた状況を鑑みるということをしないのだろうか? 絶句
する麻木の目前、渋る小鷺だったが、楓がならば、自分が連れて来ると言った
途端、血相を変え、慌てて、口走った。
「待って。待って下さい。僕がお邪魔します。あいつ、気が荒いから危ないん
です。とてもお願い出来ませんから」
「それじゃ、どうぞ」
「はい。失礼致します」
恐縮しつつ、小鷺が入って行くのを見送って、楓はやはり、あの六階へと続く
階段を見た。透かし細工の施された鉄柵の向こうに今日も花台のみがポツンと
置かれている。それを見つめる楓は何も言わなかったし、表情に大した変化は
見せなかった。ただ、ふいと向きを改め、自室へ入って行く背中は淋しそうに
見えた。考え過ぎだろうか? 何の根拠もない。だが、麻木は自分は間違って
いないと感じている。恐らく。楓はそこに花が飾られていた当時、それを見る
のが本当に楽しみだったのだと。
 楓にとっては楽しい日課だった。そう思うと真夜気の従兄、見知らぬ誰かの
回復が待ち望まれる。早く元気になればいい、麻木は息子のためにだけ、そう
願う。
身勝手だが、そんなものだよな。
当の楓はと言えば、玄関先に荷物を置いて、奥へと入って行く。麻木もそれに
習い、同じようにして付いて行った。単身者用の四、五階はどの部屋も間取り
はほとんど変わらないという話だった。当然、小鷺は一人でもベランダに出て
行けることだろう。難なく廊下からリビングルームへ進み、外界へ続く大きな
掃き出し窓を開け、しかし、そこから先の心づもりは一向にはかどっていない
ようだ。小鷺は額に汗して、未だ苦心惨憺しているのだ。
「おいで。おいで、パピ。ね。出ておいで」
 懸命な小鷺の猫撫で声にも、パピはピクリとも動かない。聞こえていない、
と言うふうにゴロリと横になったまま、向こうを向いている。
無視を決め込んでいるのか。
入って来た親子の気配に気付き、小鷺は振り向いて頭を下げた。
「すみません。今、退かせますから」
悲壮感さえ、漂っている。緊張して、こわばり、これから決死のジャンプでも
するつもりのような汗を浮かべている有り様なのだ。
「無理しなくてもいいんじゃないのか。いて、邪魔になるもんじゃなし」
麻木の方が不安になって、思わず、声を掛けたのだが、小鷺は振り切るように
ベランダへと出て行き、すぐに悲鳴を上げることとなった。驚いて、麻木と楓
もベランダへ出てみる。そこはベランダと言っても、部屋と繋がった十畳ほど
のガラスばりの温室で、やはり、植木で覆い尽くされていた。そのうっそうと
茂った木々の作る暗がりで小鷺は自分の右の手を押さえ、痛そうに顔を歪めて
いるのだ。
「すみません。言うことを聞かなくて」
「大丈夫ですか?」
そう尋ねながら楓が小鷺の方へ近付こうとする。それに気付いた小鷺が止める
間はなかった。

 白い影はいきなり飛び出して来た。パピだ。猫は木々の足下から飛び出し、
小鷺など気にも留めず突っ込んで来た。まさに襲撃だった。彼女は楓の太股、
腹、胸と一気に駆け上がり、楓が胸に抱き留めると彼の肩越しに麻木を見た。
ミャー。挨拶代わりというふうにそう鳴くと白い、小さいが、鋭い歯がちらり
と見える。彼女はすこぶる機嫌が良かった。
「何だ、猫って、おまえのことか」
楓は目を細め、パピの背中を撫でてやる。
「おまえ、知っているのか?」
「うん、だって、よく来るよ。触るのは初めてだけどね」
どうやら猫は楓の温室にちょくちょく散策に訪れているらしい。楓に抱かれて
パピは御満悦らしく、眠そうな表情を浮かべ、甘えて、しきりに喉を鳴らして
見せた。ここが良いと言うように。

 

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