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 小鷺は狐につままれでもしたように茫然と立ち尽くしている。彼にとっては
本当に信じ難い光景だったのだろう。突っ立ったままの彼の右手の甲から血が
細く、糸のように垂れ落ちた。その赤い筋は一瞬、麻木に残像を見せた。ふと
あの死体を思い出してしまう。八月の朝の陽光の下。男の首筋に汗の粒のよう
に光っていたまち針の頭とその下から細く流れ落ちていた、幾筋もの血。猫に
引っ掻かれたのとは次元の違う痛みだったことだろう。そして、その犯人達は
未だ、誰一人として姿すら見せていなかった。
オレの夢にさえ、現れない。
「パピがミーヤ以外の人間にそこまで懐くだなんて」
絶句する小鷺の小さな呟きを楓は聞き逃さなかった。
「パピって言うんですか、この猫ちゃん。ふぅん。パピ」
ミャア。
満足そうな声で応じるとパピは一層、楓にすりついて、もう二度と離れるもの
かと言うような甘えぶりを見せている。その白猫を楽しそうに撫でたり頬ずり
したりと遊んでいた楓だったが、何かの弾みにふと我に返ったようだ。
「手の方は大丈夫なんですか?」
「ええ、大したことはありません。慣れていますし」
楓は父親の方へ振り向いた。
「ね、救急箱を出してあげて。そこの」
「ああ、いや。うちにありますから。構わないで下さい」
小鷺は慌てた早口でそう言った後、苦笑いした。
「僕、実家は薬屋なんで、一人暮らしったって、薬は何でも山ほど持っている
んです。使うのはもっぱら消毒薬と絆創膏ばかりですけどね」
楓は訝しそうに小鷺の絆創膏だらけの手を見ている。それはそうだろう。麻木
とて、パピがそうそう気の荒い猫だとは思えない。初対面の、それも仏頂面の
麻木にすら寄って来る、愛想の良い猫なのだ。
「そんなに気の荒い猫には見えないけどな」
不思議そうな楓を見て、小鷺は微笑んだ。
「好き嫌いがあるみたいですよ。僕は嫌いなタイプらしい」
「嫌いって、あなたが飼い主なんでしょう?」
「いや。僕の猫じゃないんです。ミーヤの、この上の階に住んでいる友人の猫
なんですよ。彼、ちょっと今、体調が悪いんで僕が時々、預かっていて。パピ
には迷惑な話なんでしょうけどね」
「それじゃ、僕がお宅までお届けしましょうか。それとも、先に手当なさって
から迎えに来て下さいますか? どちらでも構いませんよ」
「それじゃ、申し訳ありません、預かって頂けますか? すぐ戻って来ますの
で」
「ごゆっくり」
「すみません。すぐ戻ります」
小鷺は麻木にもぺこりと頭を下げ、足早に出て行った。親子二人だけになると
楓はパピの頭に頬を寄せ、ますます幸せそうな表情を見せる。
「おまえ、パピって名前だったんだ」
楓に答えるように猫は目を細めて見せる。話が通じているのではないか、麻木
がそんなことを思うほど、パピという猫は間が良かった。
「こいつ、よく来るのか?」
「うん、昼間にね」
楓は猫を父親へ差し出した。
「何だ?」
「持ってて。塞いで来るから」
そう言われて受け取りはしたものの、麻木には息子の意図がわからない。仕方
なく猫を抱いて、楓の後を追った。塞ぐという単語に少しばかり気を引かれた
のだ。

 

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