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 追ってみると楓は既に温室部分に出ていた。それに倣おうとして、麻木は足
下の白いタイルに気付き、躊躇する。昔、見たあの時計店の血に濡れた床が脳
裏をかすめて行った。怯んだことは確かだ。だが、そんなことはほんの一瞬で
忘れ去る。楓が大きな葉陰に入り、姿が見えなくなったのだ。過去の、それも
幻と変わり果てた記憶の相手などしてはいられない。慌てて、踏み込んだ先、
白い床は冷たくはなかった。それだけでも人の心は十分、救われるような気が
する。麻木は落ち着いて、息子の身体を捜し始めた。
 当の楓は隅の方で屈み込み、割れた最下辺の窓ガラスに開いた穴を塞ぐべく
段ボール箱を置き直す作業の真っ直中にあった。箱は意外に重いようだ。どう
やら、そんな重い物を押し除けて、パピは不法侵入を繰り返しているらしい。
四、五キロなんてもんじゃなさそうだもんな。猫も洋種は七、八キロまで行く
んだろう。
柔らかな毛皮をまとった太い足は見た目は優美だが、案外、丈夫な実力派なの
だと感心もする。人間には頭を突っ込むことも出来ない小さな穴だが、パピに
は頑張れば十分な出入り口となるようだ。きっと柔らかな毛皮を擦りながら、
四苦八苦して潜り込んで来るのだろう。
「そんな所から出入りしているのか」
「そうみたい。でも、どうして、こんな所のガラスが割れるんだろう。二度は
入れ直したけど三度目には諦めたんだ。面倒になってね。冬場、温度が下がる
と困るんだけど」
作業を終え、立ち上がった楓はパピの左前足を手に取った。
「入って来るのは構わないけど、塞いでくれないからね、パピは」
猫は毎回、力づくで段ボール箱を押し除けて侵入し、帰りはそのままなのだ。
当然だが。
「ま、不思議と僕がいる時に来るから、すぐに塞げるんで実害はないけどね」
「昼間は絶好のサンルームなんだろうな、ここは」
「そうだろうね。ずーっと眠っているよ、こいつ。よくもまぁ人の家でこんな
に眠れるなって感心するくらい」
 チャイムの音に二人は顔を見合わせる。小鷺が手当を済ませ、戻って来たの
だろう。
「素直に引き渡されてくれるのかね」
「さぁ。こんなにおとなしい良い子なのに。おかしな話だよね」
そう言いながら楓は玄関へ出て行き、麻木も猫を抱えたまま、付いて行った。
そしてやはり、無警戒にドアを開けた楓は小鷺と、その後ろにもう一人、若い
男を見付けていた。
 楓には見覚えのないその若い男の方がするりと無造作に入って来て、さすが
の楓も父親の方へ一歩退く。楓は真夜気とも初対面なのだ。
「初めまして。真夜気です。パピの飼い主の従弟です。本人が来られないもん
で、代理で引き取りに来ました」
そこまでは行儀良く言ったのだが、そこまで言うと、真夜気はふいにニコリと
した。
「あんた、テレビで見るより、ずっと綺麗だね」
ポンと真夜気が放った一言にさすがに楓も返事に困ったのか、無表情に立って
いるだけだ。彼が怒っているのか、それとも驚いているだけなのか、その沈黙
からは見当がつかず、麻木は傍らで不安に駆られていた。
 殺された四人がどんな目で楓を眺めていたのか、連想させるような真夜気の
目。その上、彼の物腰は押しの強い、特有のものだ。若さに似合わない威圧で
光る目で真夜気は楓を捉えていた。真夜気にとって、楓は憧れの有名歌手では
ない。何の遠慮もなく真夜気は右手を伸ばして、楓の顎を掴んで上向かせた。
あまりの暴挙に呆気に取られ、誰一人、不服も言えない内に予想もしない質問
を真夜気は放った。
「あんた、骨折したことある?」

 

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