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 楓は答える代わりにぱちりと一つ、瞬きをし、麻木はただ無言のまま、その
様子を見ていた。真っ先に叫んだのは第三者、小鷺だった。
「いい加減にしろよ。失礼じゃないか」
声を荒げ、そう叱責する。しかし、真夜気の方は一向に気にした様子も見せず
に、いや、相手にさえしなかった。
「歯並び、見せてよ」
真夜気は楓より十センチは背が高い。楓だって百七十七センチあるのだから、
真夜気は百九十センチ近いことになる。その大柄な身体と自信たっぷりな笑み
が楓を射竦めているのかも知れない。楓は眉一つ、動かさなかった。
「やめないか」
小鷺の怒声に真夜気はようやく楓の首筋から手を離し、それからさも不快げな
顔で小鷺を見下ろした。
「指図するなよ。猫の機嫌も取れないくせに」
「なっ」
小鷺の白い顔は見る間に赤く染まって行った。憤っている。それは誰の目にも
明らかだ。
「失礼じゃないか? 大体、麻木さんはおまえの家の犬や猫とは違うんだぞ」
「オレは犬や猫を粗末にはしない。だから、犬や猫にするのと同じことを人間
相手にやったところで失礼には当たらない。おまえは犬猫相手になら何だって
やっていいと思っているから、そういう発想が出て来るんじゃないのか?」
「な、何を言い出すんだ?」
興奮し、真っ赤に上気した顔で小鷺は早口に叫んだ。
「人聞きの悪い、でたらめを言うな。それじゃ、まるで僕が犬や猫を虐待して
いるみたいじゃないか。僕は断じて、そんな真似はしていない」
「ああ、そう。まぁ、口じゃ何とでも言えるしね。だけど、言葉なんぞじゃ、
犬猫は騙されないんだよな、パピ」
ミャー。
取り澄まし、猫が一声、鳴いて見せた。あまりにも間の良過ぎる猫だ。
「さっさと行けよ。今日は大好きなプールの日なんだろう? 心配するまでも
ないさ。ミーヤにはオレが付いていてやるから。な、パピ」
ミャー。
パピはいちいちタイミング良く鳴いて、真夜気を支持して見せる。二人がかり
での絶妙な攻撃は麻木が聞いて感じるより、小鷺にとっては更にきつい仕打ち
だったようだ。小鷺は一瞬、大きく目を見開くと、一言も発しないまま、踵を
返し、出て行った。お行儀の良い彼らしからぬ行動だった。よほど腹を立てて
いたのだろう。そして、そんな後ろ姿には一瞥もくれず、真夜気は楽しそうな
笑みを浮かべて、楓を見やった。
「怖かった?」
「ううん。驚きはしたけどね」
 二人の気安いやり取りに麻木の方がギョッとする。なぜ、楓は何もなかった
ように答えるのか、麻木にはわからなかった。確かに真夜気が踏み込んで来た
時、楓は一歩だが退き、顎を持ち上げられた時には眉も動かさず、じっとして
いた。明らかに恐れ、たじろいだ様子を見せたというのになぜ、まるで何事も
なかったかのように、いや、あたかも真夜気の言動を理解し、承知出来たかの
ように、こうも平静に応じることが出来るのだろう? もしも、真夜気のあの
行動が楓の気分を害するほどのものでなかったとしても、あの一瞬、身動きも
しなかったのだ。それは恐怖心からではなかったのだろうか?
「こういうの、失礼って言わないよな。失礼っていうのは犯罪者のやり口さ。
何しろ、いきなり、他人の人生にピリオドを打つんだからな」
「それは究極で、おまえさんの行為もかなり失礼なものなんだぞ」
麻木が意見すると真夜気はまず、じっと麻木の顔を見つめ、それからゆっくり
とした口調で言った。
「常識で人を判断するとね、生涯に一回くらい、足下をすくわれることがある
らしいよ、おじさん。よし、パピ、来い。あんまり長居すると、非常識だって
嫌われるからな。じゃ」
 気を悪くしたのか、さっさと立ち去ろうとする真夜気の後を追うべく、パピ
はするりと麻木の腕から抜け出て、彼女にしては急ぎ足で出て行こうとする。
しかし、そこで彼女はふと、何かを思い出したように立ち止まり、麻木と楓、
二人を振り仰いだ。
ミャー。
別れの挨拶のつもりらしい。
「バイバイ」
笑顔で答えてやる楓が正直者なのか、それとも単に子供じみた愚か者なのか、
麻木には結論を出したくない問題だった。そして、楓の様子を確認するように
じっと眺めた猫の方が確かに大人に見えていた。

 

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