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「鍵を掛けておいてくれる?」
楓は玄関先に置きっぱなしにしていたスーパーの袋を手にキッチンへ向かう。
鍵を掛け、麻木が行ってみると、その楓は冷蔵庫に食品を移す作業に勤しんで
いた。
「本当は驚いたんだろう?」
「少しは、ね」
麻木は楓の肩越しに冷蔵庫内を盗み見る。彼は一見、おおらかだが、ラベルの
向きにもこだわる神経質な一面も併せ持っているらしい。戦利品の如く御丁寧
に整列させられ、居並んだ品々が冷たい庫内で、密やかに主の本質を主張して
いるようにも見えた。
結局、オレは楓の全てを把握しているわけじゃないんだな。
今更ながら、つくづくと実感する。父親として、あまりに不甲斐ないこの状況
を招いたのは自分だと承知している。
オレの怠慢が原因なんだ。
だが、今は曲がりなりにも、気付いている。自分の不甲斐なさを知っていさえ
すれば、これから先、将来には改善の余地がある。
ささやかだが、希望には違いない。
何一つ、不思議にも思っていなかった頃には皆無だった可能性と信じたかった
「平気なふりなんてしなくていいんだぞ」
楓は苦笑いを見せる。
「大丈夫だよ。悪ふざけだって、わかったからね」
「どこで、そんな違いがわかるんだ? 締められてからじゃ、遅いんだぞ?」
「お父さんだって、悪ふざけだってわかっていたから黙ってたんでしょ。そう
いうもんなんじゃないの?」
楓は最後のパックを冷蔵庫に移し終えて立ち上がり、麻木の方へ向き直って、
ニコリと笑った。
「すぐ作るから、ちょっと待っていて」

 食事中も楓は至っておとなしい。物心ついて以来、ずっと無口な父親と一緒
にいたためにいっそ、無駄口を叩く習慣がないのではないか? そう思うと、
不憫で堪らなかった。沈黙に慣れてしまい、気詰まりと気付かない。そのため
に無理に話そうともしないのだ。ふとはずみに目が合えば、この上なく優しい
笑顔を楓は見せてくれる。だが、それはあまりにも静かな笑みだった。整った
容姿のせいか、時折、父親の麻木にさえ、楓は植物のように見える。
澄んだ静寂の中に暮らす、一本の木のよう、だ。
それは森の奥底で長く生きる老木なのかも知れない。麻木は神も霊魂も宇宙人
も当然、救世主も信じない。どれもこれも気休めか、暇潰しのネタだと思って
いる。
だが。
それでも、長く生き続けている老木にだけは魂を感じる。動けない生身の身体
で全てを受け入れながら、ひたすらに耐えて繋いだ命なのだ。そんな命の持ち
主である老木に対してだけは敬意を払わずにはいられなかった。
 しかし、そんな老木に、たかが三十六歳の人間が重なって見えることが良い
ことなのか、それとも悪いことなのか、麻木には判断も出来ない。
わからない。
だが、せめて。
そんな静けさはもう少し先、歳を経た先で持つことが出来れば、それが一番、
良いことなのではないか。正直言えば、この頃、麻木は息子が自分と同次元に
住んでいるとは信じ切れなくなっている。無論、そんなことを考える自分の方
がおかしいと自覚はしている。それでも麻木には楓が不可解でならなかった。
バス停で隣り合わせた見知らぬ他人とはお互い、同じ時間の中で生きていると
共感出来る。それなのに今、目の前で水を飲んでいる楓は自分と同じ時間の中
にはいないような気がしてならないのだ。

 

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