カホはあまり喋る女ではなかった。いや、女にしては喜怒哀楽、そのものを はっきりと表現しなかったと思う。その点では一見、不釣り合いなカホと麻木 はよく似た二人だったと言えるのかも知れない。そして、そんな無口な彼女が 何も聞かない麻木に対して、二人の入籍前に自身について語ったことはわずか だった。水城 カホという姓名と身寄りがないこと。そして、既に身ごもって いること、それだけだった。彼女はその男について何も言わなかったし、麻木 も聞かなかった。 そう、オレは聞かなかった。 全て、納得ずくで、結婚したんだ。 そう承知していながら、麻木はカホの死後さえ、その男の存在を忘れたことが ない。いや、むしろ、彼女を失って初めて、その男の存在を強く感じるように なったのかも知れない。目前で眠る楓に自分以外に父親がいる、それを例え、 一時忘れても、すぐにまた麻木は思い出した。 忘れようがなかったんだ。 似ていないと言われる度、麻木は楓には母親の美貌に見合う父親がいるのでは ないかと心底、怯えた。 そう思う根拠があったんだ。 楓は当然、麻木には似ていない。だが、母親であるカホにも似ていなかった。 女であるカホの方がむしろ強い美貌を持ち、息子の楓は穏やかで優しげな姿を している。つまり、まるで似ていないのだ。 カホに似ていてくれたら。 カホしか親はいないって思えるくらい、似ていたらな。 初めてカホに出会った時の驚きを麻木は今でも覚えている。小さな食堂の、 通りに面した窓から垣間見た彼女の面立ちの美しさと真面目な仕事ぶりは印象 的だった。さほど念を入れて磨く必要もなさそうな安物のフォークやスプーン を一つずつ丹念に丹念に磨く姿に敬服し、まさに一目惚れした。話したことも ないのに自分は心底、彼女を好きなのだと知った。しかし、麻木に出来ること と言えば時々、その店で食事をすることくらいのもので、二人の未来に接点が 生じるとは到底、考え難かった。 オレはそんなに図々しい質じゃなかった。 麻木は見るからに誇り高そうなカホの強い美貌に気後れし、それ以上を望む 勇気など湧いても来なかった。いや、それどころか気にしていなかった自分の 冴えない姿を自覚し、すっかり萎縮してしまったような有様だったのだ。 とても声など掛けられなかった。 時折、彼女に会える、それ以上の喜びを求めるだけで罰当たりだ。そう感じて いた。 だって、彼女は本当に美しかった。 飾り気がなく、慎ましい服を着ていたが、忙しく立ち働く姿に麻木は強いもの を感じた。育った環境が違うのだと思えるほど彼女は凛として、気高かった。 皆とは違った。 ひたすら真面目に働く彼女に惹かれながらも、麻木には話し掛ける度胸も、 いや、土台、その資格が自分にはないと諦めていた。しかし、ある夜、突然、 麻木はその彼女自身に呼び止められたのだ。『麻木さん』と。 |