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 その夜、彼女は定刻より二時間も遅れて店を出ることになったそうだ。そう
なると、通りすがりに出くわした麻木に送って欲しいと頼んだのも、そう突飛
な言動とは思えなかった。彼女は麻木と店の主人との会話から麻木が刑事だと
知っていた。それに何より、彼女ほどの目立つ美人が街灯も少ない深夜の帰路
に一人で就くのは危険この上ない無謀なのだ。当然の申し出だと考えた。
それに。 
 間近で見るカホは思っていたより、ずっと可愛らしい長い睫毛をしていた。
その意外な一点に気付き、俄に彼女を身近に感じられたし、束の間とは言え、
まるで恋人同士のように連れ立って歩ける。そう思い付いて、麻木はすっかり
浮かれてしまったのかも知れない。らしくもなく率直にに快諾し、二人並んで
歩き出した。どうやら嫌われてはいないらしい。そう実感したことで生まれて
初めて、淡い期待すら抱いたのかも知れなかった。そして、その夜から麻木は
一日中、彼女の仕事が終わる時刻を意識し始めた。むろん、一緒に帰ろうなど
と積極的には誘えない。待ち伏せることも出来ない。
ただ。
もし、偶然に出くわしたなら。その時はと夢見たし、実際、出会えば、彼女の
アパート近くまで送るようにもなった。
本当に淡い期待だったんだ。
麻木は気が回らないし、その自覚もあった。だから、彼女が自分の隣を歩き、
その上、自分を頼りにしてくれている、そう思うだけで十分、満足だったし、
大体、カホも口数は少ない。二人はほとんど会話もないまま、ただ並んで夜道
を歩く、それだけのことだった。
それでも嬉しかったんだ。
 そして、そんな不思議な時間を共有するようになって、どれくらいの日数が
経ったのか、麻木が数えてもみなくなった頃。彼女を初めて送った二月の寒い
夜から四ヶ月が過ぎていた、その夜。
 その日、珍しくも麻木の二、三歩先を歩いていたカホがふいに立ち止まり、
くるりと振り向いた。いくらか子供っぽい勢いで回ったために彼女のスカート
がふわりと回るのを麻木はただじっと眺めていた。だが、すぐにカホの視線に
気付き、麻木も彼女を見つめ返す。いつにも増して綺麗だ。そう思った時だ。
彼女は言ったのだ、それも予想もしないことを。
『わたし、妊娠しているんです』
突然の告白に面喰らい、戸惑う麻木を見つめたまま、カホは落ち着いた調子で
続けて尋ねた。
『わたしと結婚して、わたしの夫に、そして、この子の父親になっては下さい
ませんか?』

 あの六月の夜。明るい月明かりの下で、自分がどんな顔をして頷いたのか、
もう麻木には永久にわからない。ただ、麻木を見つめ、返事を待っていたカホ
は麻木の承諾を得ると、まるで予期していた通りだったかのように満足そうに
微笑んだ。
『あなたなら信用出来る。これで安心だわ』
そう独り言のように呟いた彼女はそれから五ヶ月後の十一月二日、楓を生み、
その丸一年後に死んだ。楓の一歳の誕生日に彼女は一人、死んだのだ。麻木は
時々、考える。身重の彼女には早死にすると、自分の未来が予期出来ていたの
だろうか。その不安から、あまりにも幼い我が子のために父親と言うささやか
な保証を求めたのだろうか、と。

 

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