下手な応対をするよりはいっそ、気が済むまで楓の好きなように喋らせた方が いい。そう結論付けるしか、術もなかった。 「僕はただ、彼女を、あの人を水の中から出してあげたいだけなのに。あんな 場所にひとりぼっちじゃかわいそうだよ。彼女にも家族や会いたい人がいるで しょ、だから。だけど、その人達もかわいそうだよね。あんな所に沈んでいた んじゃ、どこを、どんなに捜したって見つからない。きっと十年は彼女の帰り を待ち続けているだろうに、その人と家族は」 楓は興奮が冷め、彼らしいと言えば最も彼らしい静かな姿に戻っている。ただ 植木を見たり、猫の背を撫でてやる時のあの輝きはまるっきり失せていた。 「ねぇ」 「何だ?」 「もし、僕が見ているものが何もかも幻で、聞いているものが幻聴だったら、 彼女も実在しないのかな?」 麻木は楓の静かな木のような顔を見つめた。彼女。楓の愛する人。今度も楓は 彼女の名前を教えてくれていなかった。 「そんなはず、ないだろ? そうだ。名前を教えてくれないか。そうすれば、 彼女の存在感が増す、そんなことで迷わなくてもよくなる」 楓は不思議な見慣れぬ笑みを浮かべた。 「何だ?」 「僕は彼女の名前を知らない。二度、会ったことがあるだけだから」 「二度、だって?」 「そう、二度だよ。もしかしたら、ただ神経質になっていただけなのかも知れ ない。でも、僕と関わって、もしも、彼女が早死にすることになったらって。 そう危惧した。こんな仕事は辞めて、それから普通に付き合おうと思ってた」 「早死になんて、縁起でもない。それに誰と付き合ったって」 「だから、お父さんは特別ってレベルを知らないって言ったんだよ」 楓の目に浮かんだ光。冷たい残忍な刃に似た煌めきに麻木は背筋を固くした。 思いつく限りの、特別。しかし、麻木は未だ、そんなことがあるはずはないと 思ってもいた。 「まさか、ファンが殺すわけじゃないだろう」 麻木の声音は怯えていたのかも知れない。自分で口にしながら、それでも未だ 麻木はいや、そんなことはないと否定すべく腐心もしている。 しかし、楓の浮かべた笑みは肯定にしか見えない。いかにも余裕のあるよう な、その笑みは断じて嘘吐きの、薄っぺらなものではなかった。 「そうだよ。一件だけじゃなかった。たったの一件だったら、偶然だと普通に 思うよ、僕だって」 「まさか」 「先輩はアメリカに行ってそれっきりだったから、関係なかった。でも、その 後、付き合った、日本にいた人は二人共、死んだ。同じような轢き逃げでね」 楓は笑っている。だが、その額にはうっすらと汗が浮かんでいた。 そうだ。 聞いている麻木より、当時の記憶を持つ、語る楓の方がよほどゾッとする話で あり、それが当然なのだ。そのわずかばかりの汗が真実味を増し、麻木も否定 出来なくなっていた。 |