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デビュー以来、事務所から欠かさず送付されていた次の二週分のスケジュール
がぱたり、と届かなくなった。もしかすると、楓は麻木の生活の中から自分の
痕跡を消そうとしているのではないか。そう勘繰りたくもなるほど、楓は頑な
で、その心を氷解させるのは容易ではないと日々、思い知らされる。
当然だよな。
 今、楓は信じていた父親に裏切られた悲しみや、悔しさでいっぱいなのだ。
その怒りを解くのが簡単なことであるはずがない。しかし、原因である麻木が
諦めるわけにはいかなかった。殺人鬼達の魔手から楓を守るにも、療養させる
にも、まず和解が必要なのだ。
どうしても、オレが自分でやらなきゃならないことなんだ。
しかし、楓の住むマンションの扉はますます固く、とげとげしい雰囲気すら、
漂わせ始めていた。建物そのものが楓の味方のような顔で見下ろしているよう
に思える。楓自身に父親を拒む気持ちがある限り、到底、侵入を認めてくれる
はずもなかった。
『麻木様はいらっしゃいません』
若い守衛はそうとしか言わない。彼には他のセリフは持ち合わせていないかの
ような明快さまである。とても仲違いした親子のために、一回だけ規約を破る
ような融通は期待出来なかった。彼は何度でも、同じセリフで断ってくれそう
なのだ。住人の楓がもし、居留守を決め込んだなら万事休すだ。ほんのわずか
でも期待出来るとしたら、それは小岩井しかありえない。彼とは少しは会話を
交わしたことがある。他の連中よりは、ましのはずだ。
『小岩井さんは?』
期待を込め、その名を持ち出してみた。
『ただ今、帰省しております』
何度、同じ問答を繰り返せばいいのだろう。田舎に帰っているという小岩井で
さえ、何日経っても戻っては来なかった。何度もメモ用紙に走り書きし、伝言
を頼んだが、楓からの返事はないままだ。麻木はマンションから離れた住宅地
に立ち、楓の住む部屋を遠く見上げた。
 とっくに日は落ちている。だが、楓の暮らすはずの部屋は暗いままだった。
ここからでは遠過ぎて、部屋そのものが黒く、凍てついて見える。楓が誰かの
家に泊まるとは思えない。きっとコンサートとやらで遠出しているのだろう。
そう判断し、いくらか気を楽にする。一人きりで部屋で押し黙っているよりは
仕事仲間と一緒にいる方が何かと安心だし、楓の気も紛れることだろう。それ
に、少なくとも今以上に思い詰めることはないはずだ。
 麻木はウールのコートでは温めることの出来ない、自分の胸の内を呪った。
楓の実父。それを思うと、心は底なしの沼に沈んで行くようだった。
余計なことばかり、考えちまう。
二人はもう、どこかで会ったのだろうか? カホが間違いなく愛したその男が
もし、今、楓を欲しがったなら。男は今、幾つだろう? 麻木は自分の年齢を
考えてみる。この頃、ひしひしと己の老いを感じる。老いを思い知る。それに
つれて、とうの昔に忘れていたはずの過去を次々に思い出した。まるで一旦、
遠ざかった過去が自ら、麻木の元へ戻って来るようだった。
今になって、却って過去が身近になって来た。
そう思う。そして、戻って来たその分だけ、これまでの人生が短くなったよう
な気がする。過去は何かに圧縮されて、ごく短い時間になったと思うのだ。

 

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