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戸惑う麻木の鈍い表情を目を細め、小鷺は観察している。結局、麻木にはその
理由が推察出来ないことを彼は知っているのだ。
「人畜無害なんですよ、僕。だから、女子校にはうってつけなんですよね。別
にホモってわけでもないつもりですけれど」
そう言われて、以前、小鷺が真夜気相手に怒りを露わにした一件を思い出す。
あの時、ミーヤには自分がついているからと真夜気は言った。そして、それが
小鷺の気に障ったように見えた。
「じゃあ、六階の人を...」
思わず口を突いて出た麻木の呟きを小鷺は聞き逃さなかった。
「正解。大好きなんです」
麻木には不思議に感じられるほど小鷺は明るく、そう言った。
「もう言いましたっけ? ミーヤって言うんですよ、彼。子供の頃、同じ教室
でヴァイオリンを習っていたんです。向こうは天才で、僕はただの習い事って
レベルでしたけどね。それでもミーヤに会えるから、レッスンは好きだった。
楽しくて、いそいそと通ったものですよ。ちっとも上達しないのにね。あっ、
僕が一方的に好きなだけですからね。昔、告白のようなものをしたことはあり
ますが、そんな対象には見られないって、はっきりと言われました。正確には
ふられちゃったんですよね」
小鷺は真っ直ぐに立ってはいるものの、その見た目より、ずっと酔っているの
だろう。この辺りで制止してやるのが年長者の務めだと、麻木は思った。彼が
喋るがままに聞いてはいけない話だろう。
「言わなくてもいいことなんじゃないのかね」
小鷺は素直に頷いた。
「ええ。わかっていますよ、十分に。ただ、愚痴ってみたかったんです。彼と
は生涯、何の進展もなさそうだし、親には見合いを勧められているし。それに
何より、教師って、生徒と親御さんの不平不満を聞くのが仕事のようなものだ
し。正直、あらゆる方位から愚痴を聞いてばっかりで、僕自身の悩みは両親や
姉妹には相談出来ませんからね。父親は薄々は勘付いているようですけれど、
もし、融通の利かない母親に知れたら、一家心中かも知れない」
「深刻なんだな」
小鷺は正直にもコクリと頷き、だが、それを否定するように付け加えた。
「愚痴る相手がいないってことは、厳しいですよね」
「そうだろうな。だが、何もオレでなくてもいいだろ」
「そうですね」
小鷺は力無く頷き、すぐに気を取り直したように薄い笑みを浮かべて見せた。
「お詫びにコーヒー、御馳走させて下さい。どうせ、息子さんはお留守だった
んでしょ?」
「何で、あんたが知っているんだ? また小岩井か?」
小鷺は苦笑いした。
「いいえ。小岩井さんの名誉のために言っておきますが、あの人、基本的には
余計なことは言わない人ですよ。たまには失敗しますけどね。楓さんがいない
っていうのは僕が一昨日か、楓さんがボストンバッグを持って、階段を下りて
いる後ろ姿を見かけたからです。あれは二、三日分の荷物でしたよ。あんなの
を持っているのにエレベーターは使わないのかって、驚いたから、よく覚えて
いるって、それだけの話です」
麻木にとっては胸の痛い話だった。暗い階段を一人、下りて行く楓の淋しい背
中が見えたような気がした。

 

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