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麻木の軽口に小鷺は笑い声を上げた。
「でもね、本当に人間って、面白いんですよ。予測のつかない行動を取るし、
誰でも必ず、意外な一面を持っている。授業は毎年、同じカリキュラムの繰り
返しでいささか退屈ですけど、生徒は毎日、刻々と変わって行く。それを見て
いるのがすっごく楽しくて、嬉しいんです。ま、僕に出来ることはと言えば、
彼らの愚痴を聞いてあげることくらいなんですけどね」
小鷺は自ら選んだ仕事に誇りを持っている。その清々しく光る自信に羨ましさ
を覚えると同時に麻木は彼に関しては安心していた。
「親御さんは反対しなかったのかね?」
「もちろん」
屈託なく小鷺は笑う。
「だって、麻木さんも息子さんが歌手になるって言った時、反対はしなかった
でしょ? うちもやりたいことをするのが一番いいって賛成してくれました。
やりたい仕事こそ、自分の適職だからって」
こいつは幸せ者だ。
麻木は胸の中で一人、呟いた。裕福で愛情に満ちた家庭で育てられた小鷺には
体温にも似た温もりがある。そして、それは楓にはないものだった。
 事実、楓は行儀の良い子供だった。そのまま大人になった彼を麻木はずっと
穏和で優しい人間だと信じていた。だが、こうして本物の穏和で優しい人間、
小鷺に触れてみると、今まで自分は勘違いしていただけなのだと気付かざるを
得ない。小鷺に比べたら。麻木は一人ごちた。
楓は偽物だ。
では、楓の正体とは一体、何なのだろう? 頭はいい。だから事前にトラブル
を回避出来る。礼儀は知っている。だから、他人と争う事態を生じさせない。
そんな頭の良さこそが楓の優しさの本質だったのではないか? 食べ物に好き
嫌いがないように楓は人に対しても好き嫌いがない。だが、それは単に食べ物
同様、人に対しても関心も執着もなかったからなのではないか? 麻木は重い
息を吐く。楓は今、正気とは言えない状態にある。それを非難することは過酷
と言うものだろう。
悪いのはオレだ。楓じゃない。
 二十一歳の時、真実を知った。そんなことを楓本人の口から聞かされるとは
夢にも思わなかった。本人に告白された今でさえ、いくら考えてみても、それ
がいつのことだったのか、わからないくらいなのだ。そう言えば、楓の素振り
がおかしかったと振り返る、見当すらつかない。二十歳の楓も、二十一歳の楓
も、二十二歳の楓も、全く変わりがなかった。当時は毎日、顔を合わせていた
にも関わらず、思い当たるその一日がない。
オレは役立たずだ。
実子ではないという事実を他人に、しかも不意に知らされた楓はその時、どれ
ほどのショックを受けたことだろう? 筆舌に尽くし難い苦しみだったのでは
ないか? それでも楓は麻木には何の変化も見せなかった。動揺も、驚きも、
悲しみさえも何一つ、おくびにも出さなかった。では、何も感じなかったのだ
ろうか? いや、そんなことがあるはずはない。
だが。
いや。
考えれば考えるほど、両の瞼に描く楓の姿は糸が解けるように解き解かれて、
その輪郭を失って行く。このままではすぐに消えてしまう。
どうすればいいんだ? 
「何だか。思い悩んでいるってふうですね」
顔を上げると小鷺は優しそうな顔付きで麻木を見守っていた。
「家庭環境というものは」
麻木は我知らず、そう切り出していた。

 

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