幼かったとは言え、それでも楓に嘘は似合わない。あの真剣さは本物だった と信じられる。ならば、楓は一体、何に怯えていたのだろう? それが未だに 麻木にはわからない。幼い子供は大抵、暗がりや風音を必要以上に怖がるもの だし、それは子供ならではの想像力や無知が抱かせる妄想から発する恐怖だと 言えるだろう。よって幼い一時期においては利口な子供の方がおかしな言動を 取りがちだ。麻木もほとんどのことはそんな事例通りだと考えたが、そのただ 一度、それだけは全く種類が異なったと思う。そして、それがあるからこそ、 未だに楓を平凡と思えず、時々、人間離れしているようにさえ感じる。いや、 どこかで畏怖してさえ、いるのかも知れない。 どうしても、ただの偶然とは思えないんだ。あれだけは。 楓が五歳になる年の夏。麻木は兄に誘われて、彼の友人達と釣りに出掛ける ことになっていた。兄嫁の節子が留守番を兼ねて、楓を見ていてくれることに なり、麻木は途中、寄り道の形で迎えに来た皆と合流して、共に出発しようと していた。そこへ普段なら目覚めるはずもない楓が起き出して来た。 当然、皆、子供も一緒に行きたがるのだと思った。しかし、その予想は見事 に外れ、楓は父親に取りすがって、行くなと泣いたのだ。聞き分けの良い楓が そこまでして父親の外出を嫌ったことは嘗てなく、義姉がいくらなだめてみて も、泣き止むことすらしない。業を煮やし、とうとう麻木が叱っても変わりは なかった。あまり激しく泣くから楓には大甘の、ただの馬鹿になり果てる兄、 守はあっさりと降参してしまった。彼は楽しみにしていた計画の方を覆したの だ。さすがに皆に申し訳なくて、慌てて、止めようとする麻木を守は笑い飛ば した。 いいじゃないか、楓ちゃんのわがまま、聞いてやるチャンスは滅多にないぞ。 いつもいい子なんだから、偶にはいいじゃないか。 兄は楓に甘いからそれでいいだろう。だが、周りの者達は気の毒だった。彼ら は皆、兄に合わせて続々、諦めざるを得なかったのだ。 時化だったと思えば、ね。 内の一人がようやく赤らみ始めた空を見上げ、そう言ってくれたものの、麻木 にだって、彼の未練の程は見て取ることが出来た。兄が言い出したことだから 仕方なく我慢したものの、彼のはらわたは煮えくり返っていたに違いない。 せっかくの休日の楽しみをこわっぱのわがままで台無しにされれば当然だ。 しかし、その彼でさえ、半日後には真顔で言わざるを得なかった。 『坊やのおかげだよ。行かなくてよかった』と。 予約していた釣り船は定員をはるかに超える客を取っていた。そう知ったのは 夕方になってからだ。結局、予定を無くした麻木達はひがら一日、麻木の家で ごろごろと時間を持て余していたのだが、衝突事故を知らせるニュースを見、 皆、ぞっとした。まさにその船だったのだ。もし、早朝、楓が泣いて皆を引き 留めなかったら。そう考えると背筋も凍った。だが。あの時、楓は衝突事故を 予見したのだろうか? いや、誰でも、偶然と知っている。あれは単なる偶然 だ。運が良かったのだ。そう知っているつもりで、しかし、麻木には聞き分け の良い楓が単なるわがまま、子供の甘えで皆を止めたとはやはり、どうしても 考えられかった。確かめなければならなかった。 どうしても。 |