その夜、皆が帰った後、楓はテレビを見ながらスケッチブックを広げ、絵を 描いていた。それは兄嫁の発案で楓に毎夜、描かせていた絵日記だった。親と 子が一緒にいられる時間はごく少ない。ならば、せめて留守中、楓が描いた絵 日記でも見て、その成長ぶりを確認出来れば、と言う義姉の妙案には感謝して いた。だが、この夜ばかりは子供の絵など、覗いてみる暇も余力もなかった。 『今朝、どうして行くなって、言ったんだ?』 父親の問いに楓は屈託のない笑みを返した。 『女の人が行っちゃダメって言ったの』 『女の人?』 『うん。山の中にいる人』 楓はニコニコと笑っている。知っているはずだとでも言うような、そんな笑み を返され、だが、麻木には山中に住む知人など、心当たりがない。恐る恐る、 それでも思い切って、麻木は切り出してみた。 『お母さん、か?』 『ううん』 麻木はホッとして、改めて尋ねてみる。 『お父さんの知っている人か?』 『わかんない』 それはそうだ。幼過ぎて父親の知人など、ほとんど知らない。 『その人、どんなお顔していた?』 そう聞かれて、楓は不思議そうに父親を見上げた。利発そうな可愛らしい顔。 だが、どうして、父親がそんなことを尋ねるのか、一向にわからない戸惑いが 浮かんで見えた。 『お顔? わかんない。だって、お顔ないでしょ?』 『顔がない?』 父親の回りくどい質問責めに飽きたのだろう。楓はスケッチブックに視線を 戻し、再び小豆色のクレヨンを動かし始めた。それは人形の絵だった。子供の 絵だが、それでも古い物とわかる人形。麻木は男の子が人形の絵を描くことに 不服があるわけではない。男のデザイナーも、美容師も当たり前の職業だ。 ただ。 麻木は無言のまま、絵を見つめる。 水色の目と黒ずんだ栗色の巻いた髪。そんな人形の絵を描いていることに、 ではなく、楓が今、その人形をどこに見ながら描いているのか、それが何より 疑問で、大問題だった。 だって。 テレビは野球中継だった。家に人形はない。兄夫婦の家にあるとも思えない。 あそこにも息子しかいない。高価な人形は必要なかった。結果、幼い楓の視界 にそんな古めかしい人形は存在しないはずだった。 だったら、どこを見て描いているんだ? どこにもないのに? 麻木は決まりに従うように、まず一つ息を吐いた。それからゆっくりと楓を 自分の腕に抱き取る。楓は唐突な父親の行為を不思議そうに見ていた。麻木は その子供に出来るだけ優しく言って聞かせた。 『いいか、楓。そういう話はお父さんにだけするんだ。他の人には内緒だよ。 いいな。約束出来るな?』 そう言いながら麻木はなぜ、自分がそんなことを言うのか、はっきりとは自覚 していなかった。ただ、妙に真面目な顔つきでこくんと頷いた息子の様子に、 すっかり安心してしまい、それっきりになってしまっていた。 それに。 その年の秋、楓は事故に遭い、すっかり変わったのだった。 |