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 そう考えながらも麻木は決して、釈然とはしなかった。割り切れないものが
胸に居座っている。過去。
 釣り船の転覆事故を幼い楓の癇癪のおかげで回避出来たことがある。それは
事実に違いないが、所詮、良く出来た偶然だったと承知もしている。しかし、
それでも麻木は長らく頭の片隅ですっきりとしないものを感じて来た。正直、
その奇跡的な偶然、一つのために楓を平凡と信じ切れないのだ。エレベーター
の中で父親と全く同じ音を聞いていたと言う彼は一体、何者なのか?
 楓は今、追い詰められ、度重なる心労のために妄想を見るほど弱っている。
そう思いながら麻木はいつも心の奥、どこかで疑わざるを得なかった。あいつ
の神経とはそんなにも脆弱なものなのか、と。確かに楓は普通でないところを
持っている。少なくとも、あの記憶力だけは尋常とは言えないだろう。普通で
はない。その確信があればこそ、楓の心労をおもんばかりながら、それでも、
麻木は本当は一向に応えていないのではないかと疑いもする。面と向かっては
告白も出来ないような四人に、あの楓が幻を見るほどまでに追い詰められたの
か、否か。
そんなにしおらしいタマか?
楓本人は苦にしていなかったと言った。しかし、さすがに麻木もそれは信じて
いなかった。正常ではないと知れた楓の言葉をもう、頭から鵜呑みにすること
は出来なかった。父親に心配をかけまいと何も言わなかったのなら、その思い
は汲んでやりたい。だが、父親だけでなく、周囲の誰にも、楓は自分の苦況を
訴えてはいなかった。いくら捜査しても、楓に相談を持ちかけられた人間など
存在しなかったのだ。土台、楓はあちこちで弱音を吐く気性ではない。相談を
受けた人間が見当たらなくとも、それはよしとしよう。だが、あの四人相手に
楓本人が一体、何と言ったものか、それすら漏れ伝わって来ないのは面妖だと
思えた。
 嫌だと感じていながら何も言わない、そんなことだけは有り得ない。日常は
おっとりとしている。顔だって優しげで、父親の麻木すら、つい先日まで彼の
怒った顔を見たことがなかった。生来、温厚な人間だと言ってもいいだろう。
だが、もし、必要が生じたなら、その場で一変する人間でもあるということは
聞き及んでいた。あの顔立ちに安心してふざけた真似をすれば、とんでもない
目に遭わされる。楓は痴漢や強盗の類には一切、遠慮も手加減もしない。あの
四人の周辺にいた友人知人達も口を揃えて言っていた。楓は怒らせたら怖い、
だから面と向かっては何も言えなかったと。
楓が一度でも凄んで見せれば、奴らはほうほうの体で逃げ出したことだろう。
しかし、楓は誰にも、凄むどころか、大した抗議もせず、放置していた。簡単
なことだっただろうに、そうしなかった。
なぜだ?
本当に大事ではないと思っていたのだろうか。それとも、もっと大きな関心事
でも抱え、心を囚われていたのだろうか。麻木は取り留めもなく様々なことを
考えてみるものの、どれ一つ、答えに辿り着けない。それはなぜか?
どうでもいいことばかり、考えているからだ。オレは昔の、それもたった一つ
きりの偶然に囚われて、あいつのことを色眼鏡で見ようとしている。だから、
こんな迷う、いや、惑うんだ。
息子の精神状態をあくまでも精神疾患と認めたくない、その一心から出た無駄
な抵抗故だと麻木自身、心得てもいる。どうしても正式な病名を受け取りたく
ないのだ。
偏見に満ちているよな、こんな発想自体が。こんなことを考えている場合じゃ
ないのに。そうだ。オレは肝腎なことを考えなくてはならない。
楓にまつわる謎は楓さえ無事なら、後でゆっくり解けばいいのだ。何より今は
その身に迫る危機を解消することが先決だった。
そのために考え直すなら。
最初からだ。

 

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