麻木にはどうしても解せないことがあった。犯人は本当に殺すつもりだけで、 青田を拉致したのだろうか? 手掛かりも目撃者も残さない周到さを見れば、 その計画性は揺るがないものだと言えるだろう。しかし、ただ殺すための拉致 だったなら、なぜ、おそらく浴槽だっただろうが、それに水を張ったのか? 浴槽に水を張るには結構な時間、待たなければならない。その待ち間を惜しく 感じなかったのだろうか? そんな時間をかけなくても、簡単に殺せる。大体、その場でやればいい話じゃ ないか。だったら。 恐ろしいことだが、もし、なぶること、それ自体が目的だったなら。なぜ、 彼らは青田が生きている間に実行しなかったのだろう? わざわざ時間と手間 をかけ、溺死させたことと、死体を傷付ける行為が麻木には繋がらないことの ように思えてならない。もし、死体損壊が最終目的だったとしても、それなら それで尚更、溺死は不自然なのではないか。 死体が欲しいんなら、手っ取り早く首でも絞めればよかったんだ。それなのに わざわざ、水槽に水を張っている。それに大体、四件には一貫性が欠けている じゃないか。 まず、死因が二つあること。最初と第四の事件では溺死だった。しかし、二番 目、三番目では恐怖や痛みによるショック死だ。つまり、犯人は生きた人間を なぶり殺したのだ。二度、続けて。 おかしいじゃないか、そんなこと。 最初は溺死させた後、死体を傷付けて、弄んだ。二度目はもっと刺激が欲しく なって、獲物が生きている内に痛め付けた。それが楽しかったから、三度目も 同じことをした。 なら、四度目もなぶり殺しにするはずだ。さぞかし、楽しかったんだろうから な。それなのに、最初のやり方に戻った。おかしいじゃないか? 一度、味を 占めたんだ。美味いと思ったら、二度とその味を忘れない。止められるはずが ない。それなのに。 殺人にこそ、個人の嗜好が如実に顕れる。人の殺し方など習わない。だが、 それでも人は生きている間中、ありとあらゆる情報から殺人のやり方を見て、 聞いて、学び取る。そして、その無数にあるやり方の中からどれを選択するの か、それこそが固有の本能を具現化した、まさに個性なのではないか。自分を 取り巻く誰の意見も聞き入れることなく、自ら選んだ方法なのであれば。そう 考えると、死体を弄ぶという嗜好と生身の人間をなぶり殺すという嗜好が一人 の人間の内側に共存するものだとは思えなかった。人間がそこまで悪辣で残酷 な生き物だと認めたくもない。ならば、せめて一つだけに留めて欲しいのだ。 一人に一つの嗜好だと仮定して。 だったら、犯人は一体、何人だ? 被害者は皆、子供や老人ではなく、女性でもなかった。若く、抵抗力のある 男を同意なしに、しかも忽然と連れ去るにはそれなりの腕力なり、人手がいる はずだ。とは言え、殺人という最大級の秘密をそう大勢で背負う馬鹿がいると も思えない。口はその数が多いほど、余計なことを口にする。警戒心が薄れ、 お喋りになるものだ。 そうすると、犯人は二、三人か。せいぜい、もう一人。 彼らは一体、どんな間柄なのだろう。双子か、三つ子のように仲が良いか、 いっそ、完全に役割を分担している他人同士なのではないか? 一人の行動だ と考えれば、矛盾だらけだが、数個の人格が手分けをしてやっていることだと 考えれば、納得出来なくもない。好きな物が異なれば、籠盛りの果物を仲良く 分けて食べることも容易いように。 |