荘六に未だ客はいなかった。ようやく支度が整うところまで漕ぎ着けた、と 言う安堵感からか、まち子は一際、機嫌が良かった。 「あら、いらっしゃい。こんなに早く来てくれたのね」 彼女は本当に独り者なのだろうか。 良い人くらいはいるんだろうな。 麻木がそんな勘ぐりをしたくもなるほど、まち子は艶やかだった。 「こんばんは。今日はまた一段と綺麗っすね」 麻木は若い田岡の調子の良さに呆れながら、まち子の横顔を見やった。田岡は 嘘は吐いていない。本当にこの頃、まち子は艶やかで、美しい。皺こそ増えた が、血色の良い肌も、生き生きと輝く目も少女の頃より、むしろ美しいくらい だ。彼女にはこのまま、未亡人として、人生の残り、大半を過ごす理由はない はずだ。美しいのだ。当然、引く手あまたのはずだった。 余計な世話か。 「今日は楓さんのお誕生祝いなんでしょ? 手ぶらで来いって言われたけど、 それはちょっと心苦しいなぁ。せっかくのお祝いなのに。でも、楓さんの誕生 日って、十一月二日じゃないっすか。何だって、こんな年の瀬になってやるん すか?」 「スタッフの皆さんの忘年会を兼ねているのよ。それに楓ちゃんのお誕生日は 命日でもあるわけでしょ。お母さんの命日にドンチャン騒ぎはしないでしょ」 「ああ、外すのか、当日は」 「誕生日がお母さんの命日だなんて、楓ちゃんもかわいそうよね」 まち子はカホを麻木の妻とは形容しない。彼女の言い方ではいつも、カホは楓 の母親に過ぎなかった。 「お母さんの方もかわいそうっすよ。可愛い盛りの息子の誕生日を自分の命日 にしちまうだなんて。きっと言いたいことが山ほどもあったでしょうにね」 「そうね」 まち子はそれには関心なげに頷く。どうでもよいと思っているのではないか、 そう穿った見方もしたくなるほど、まち子はカホの話には淡白だった。 カホに遺言はなかった。麻木は時々、思い返すのだ。彼女が確か、死ぬ前日 あたりに手紙を書いていた光景を。身寄りもない女が一体、誰に宛て、手紙を したためていたのか。麻木は彼女の友人なる者を見たことがない。結婚生活が 短すぎたせいだとも言い切れない。カホは友人など求めていないタイプだった からだ。 オレと楓と自分、三人いればいいと思っていたみたいだからな。 だからこそ、麻木には未だ、あの手紙の行方が気にかかるのだ。もう三十五年 もの月日が流れている。それにも関わらず、ふと、あれはカホが麻木に宛てて 書いた遺書だったのではないかと思えてならない時があった。 もし、そうなら。 カホは麻木に何を書き残したのだろう、それが気になってならなかった。 「あら。お鍋さんが独りぼっちだわ」 まち子は誰に言うでもなく呟くと、カウンターの向こうへ駆け戻って行った。 彼女はカホの話でしらけてしまったようにも見えた。もっとも、彼女にとって は火にかけたままの鍋の方が大切なのは当然なのだが。 それにしても。 麻木は首を傾げる。いつものまち子なら、もう少し熱心に話を聞いてくれる はずなのではないか。気に染まない話題だとしても。彼女はプロだ。そこら辺 のことはわきまえている。それを思うと、今夜の彼女の態度は不自然過ぎる。 何でだろう? 釈然としない不満を感じながら麻木は田岡と共にカウンターの席に着く。店の 女性が出してくれた小鉢をつつきながら麻木は暇潰しを兼ね、ぼんやりとまち 子のこの何十年かを考えてみた。 この店、荘六は最初、主人一人が営む小さな、わびしい店だった。男は実直 ではあったものの、彼に運が開けたのはまち子と言う妻を得てからのことだ。 明るく、よく働く美人のまち子のおかげで荘六は一気に開花した。 |