しかし、その主人は結婚後、わずか三年で逝き、残されたまち子の今日まで の頑張りは並大抵のものではなかっただろう。三十年余りの年月は店の立地を 良くしたし、まち子は常に愛想が良かった。はやらないわけがなかった。白い 割烹着姿で忙しく立ち働くまち子の奮闘ぶりに感心しながら、麻木はまち子の 洋服を着た姿を最後に見たのはいつだっただろうと考えてみる。彼女がこの店 の主人と結婚する前。結婚すると決まって、麻木の家に挨拶に来た日。確か、 ひどく蒸し暑い日曜日の夕方近い時間にまち子は現れた。 赤いスカートのまち子は玄関先に立ったまま、家に上がろうとしなかった。 あの日、初めてやって来たんだ、オレとカホの家に。 まち子が玄関先でためらっている間に留守をしていたカホが帰って来た。楓を 抱いたカホはにこやかだったが、あの時、何だか気まずく感じたことを麻木は 覚えている。カホがまち子との仲を邪推しやしないかとやきもきしたのだ。 そんな必要はなかったのに。あの頃、オレは未だ若かったんだな。 麻木は嘆息した。 古い話だ。 もうとっくに忘れていたことだった。しかし、この頃、麻木は眠れない代わり に忘れていたはずの出来事を一つずつ思い出していた。 そう。みんな、忘れていたことだ。 ただいま、そう言って麻木にニコリと笑って見せたカホは非日常的なくらいに 美しく、その上、不可解だった。 何でだろうな。 白っぽい着物を着たカホは珍しくきちんと化粧をし、普段の飾り気のなさとは 格段の違いだった。美しかった。だが、あんな暑い夏の、しかも特別、蒸す日 に身なりを整え、生後十ヶ月にもならない赤ん坊を抱えて彼女は一体、どこへ 出掛けていたのだろう? おまけに彼女の足下はかなり汚れていた。あの足袋 や草履の汚れは舗装されたそこら近所では有り得ない類の物だった。 土だった。 なぜ、そんな物が付いているのか、不思議で仕方がなかった。しかし、麻木に はそれを問いただす機会はなかった。 その内、聞けばいいと思っていた。 まさか、彼女が急死するなどとは考えもしなかったのだ。 「何か、人数が多そうっすね」 田岡は慌ただしい店内を見回し、そう言った後、残念そうに呟いた。 「セール期間中じゃなかったら、るみも連れて来られたのに。せっかく誘って 貰えたのにな」 案外、妹想いならしく、田岡はもう何度も似たようなセリフを口にしていた。 そんなことを無意識に呟く田岡にはわかり易い中身がある。それに比べ、楓は なぜ、ああもわかり難い人間なのだろう? 何もないから見えないのか、それとも見えないものがギッシリと詰まっている のか。 麻木にはどうしても、その判断が付かなかった。親しいからこそ、苦しみや 悩みを打ち明けられないことがある。小鷺が自らの辛い思い出を披露してまで 言いたかったことの全てを、恐らく麻木は理解しきれなかったと思う。だが、 麻木を送り出しながら小鷺が言ってくれたことは正論と理解出来た。 『ね、麻木さん。人が自分の家族や大切な人にしてあげられることって信じて あげること、それだけですよ、きっと』 |