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「楓ちゃんは飲み物は水しか喜ばない子だからね。何か買って行ってあげよう
って、店に行ってみたら」
そこまで言って、守は習慣の如く妻の顔を見やり、当然のように節子が続きを
話し始める。
「びっくりするくらい、種類が多いのよ」
二人の間には自分ともう一人と言う、境が無くなりつつあるようだ。
「どれが美味しいんだろうって、本当、迷いに迷っちゃって」
今度は節子が夫の顔を見上げた。
「それで困ってね。取り敢えず、ラベルの綺麗なのを選んでいたら結局、十本
にもなったんだ。それと、な」
またもや、二人は顔を見合わせる。今度は目を細め、一層、幸せそうな様子が
窺えた。
「わたしのこれは野菜を使った煮物なの。根菜類って、やっぱり、一人暮らし
じゃ食べ難いでしょ。煮物を一人分作ったって、美味しくもないものね」
「それに何より、節子の手料理は楓ちゃんにとっては、言わば、おふくろの味
だからな。偶には食べたいだろうと思ってね」
夫の言葉に大きく頷き、節子はうっとりとした表情でため息を吐く。
「楓ちゃんは本当に可愛らしかった。天使のような、って言うのはまさにあの
子のためにあるような言葉だったわ。楓ちゃんが我が家にいる時は本当、幸せ
だった。あの子のために張り切って、御飯を作ったものよ」
「本当、楽しかったな。楓ちゃんがいると嬉しくて、飯が進むんだ。せっかく
楽しんでいるのに、おまえがいつも迎えに来ちまって」
「そうそう、偶には遠慮すればいいのにねぇ」
「そうだよ。そうすれば、楓ちゃんを帰さずに済んだのに」
 二人はまるで実子のいない夫婦のように、甥である楓を可愛がってくれた。
金品を与えたわけではないが、愛情は惜しまずに注いでくれた。無論、喜んで
預かってくれることはありがたかったが、しかし、自分の息子を迎えに行って
その度、もう連れて帰るのか、と不服を言われるのはさすがに心外だったもの
だ。二人は麻木が楓を抱えて帰ることが不満だったのだ。あれだけ宝物のよう
に扱われて育った楓が高慢にならなかったことはむしろ、不可思議なくらいの
ことだった。彼らは休み毎に楓を連れて出掛けたがり、その度に面倒がる麻木
を強引に口説き落とした。いっそ、自分達親子だけで出掛けたことがあるのか
否か、それすら疑わしいほどの熱意だったのだ。
「楓ちゃんは本当、優しくてね。昔、おまえが風邪ひいて寝込んだ時だって」
「そうそう。わたしのために一所懸命、リンゴを剥いてくれたわよね」
「おまえが嬉しいからって泣くもんだから、楓ちゃんの方が驚いちまって」
「だって、嬉しかったのよ。あんなちっちゃい手でさ」
二人の感動の思い出話はいつまで続くのだろう。閉口する麻木を見て、まち子
がおずおずと切り出した。
「あの、お二人とも。よろしかったら、奥の座敷の方で」
まち子の声にいち早く反応を示したのは節子だった。彼女のにこやかな顔から
笑みが消えるのは早かった。
「あら、まち子さん。わたしだって素人なりに精一杯、お手伝いするつもりで
いるのよ」
「でも。あの、支度は出来ていますから」
「ああ、間に合わなかったってことね。そうね、こんな時間に到着したんじゃ
役に立たないわね。何にもお手伝い出来なくて、悪かったわ。わたしだって、
もっと早く駆け付けたかったけれど、何しろ、しがない町工場でしょ。うちの
思う通りには何一つ、終わらないものでね」
「まぁ、そんな。お気遣いなさらないで。あたしはこれが商売なんですから。
ちゃんと楓ちゃんの事務所から、お代を頂いていますし」
「飲食店で料金を支払うのは当たり前のことでしょ」

 

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