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 むろん、その事故が原因の全てであるはずはないだろう。しかし、その事故
を境に楓ははっきりと、目に見えて変わった。それまでの不可解な言動など、
忘れてしまったように夜更けに怯えて泣き出すことも、おかしな絵を描くこと
もなくなり、ただおとなしい良い子へと一変したのだ。
あれは一体、何だったんだろう? 単なる偶然か。
成長期の中で変わり行くポイントとなる時期と事故が重なってしまったに過ぎ
ないのだろうか?
未だに解せない。
「ねぇ、何を考え込んでいるの?」
麻木は楓の声に呼び覚まされ、鈍く我に返る。見やると楓は驚くほどピカピカ
とよく光る目でこちらを見ていた。到底、三十六歳のものには見えない透明度
は子供のもののようだ。そう思い付いた後、麻木は胸の内で首を振る。
いいや。二、三ヶ月前まではここまでじゃなかった。そうだ。
なかなか老けない楓も少しずつ確実に老いて、古び、くすんで行っていたはず
だ。麻木も、その当たり前の変化を見ていた。
それなのに。
最近になって再び、楓は子供の頃のような目へと戻しつつあるのではないか? 
まさか、そんなこと、あるはずがない。
老化は坂道を転がり落ちる図に似ている。一度、転がり始めたら溯ることなど
決して、ない。止まることすらない。そして地上に生まれた者皆、そのルール
に従って老い、死に行く。
そう決まっているんだ。
「僕、何か、変なの?」
楓は自分を凝視したまま、身じろぎもしない父親相手に、ニコニコと微笑んで
いる。その穏やかな様子と麻木の心配は噛み合わないようにも見える。麻木は
切り出す適当な言葉を見付けられず、内心、苛つきを感じ始めていた。
まさか。オレまで心労がたたって、おかしくなりかけているんじゃないだろう
な。
麻木は自分の妄想が怖くなり、思わずため息を洩らした。
「どうしたの? 美味しくないの?」
「いや、そうじゃない」
あれこれ一人で思い悩んでいても埒が明かない。目の前にいる当事者から話を
聞く、それ以上に有効な打開策などないはずだ。
「あの男、真夜気だが」
楓は頷いた。
「オレは今日、会ったのが二回目だった。初めて会ったのは昨日、いや、もう
今朝に変わっていたか、おまえがエレベーターの中で倒れた後。ちょうど側に
居合わせてな。診てくれたんだ」
「お医者さんなんだ、薬臭いと思ったら」
察し良く楓は頷く。
「ああ。それでその時、彼が田岡におかしなことを言ったのが気になっていて
な」
楓は小首を傾げる。
「おかしな?」
「そうだ。殺気で呼び出されるオバケもいると言ったんだ、確かにな」
楓は黙っていた。その沈黙にはきっと、理由がある。意味のない沈黙などない
と知ってもいるつもりだ。しかし、麻木にはその沈黙の意味を見て取ることが
出来ない。聞かなくては何一つ、わからないのだ。
ほんの少し前までは、そんなことに気付いてもいなかった。
反省する間も惜しい。今こそ、思い切りが必要だと考える。麻木は恐る恐る、
それでも切り出した。
「おまえ、気を失う前、エレベーターの中で何か、そう、オバケのようなもの
でも、見たのか?」
楓はすぐには口を開かなかった。ゆっくりと瞬きを続ける表情には逡巡が見え
隠れしていたと後々、麻木は振り返ることになる。だが、その時にはただ静か
に瞬いているに過ぎなかった。そして、その短い間に楓は覚悟を決めることが
出来たのか、はっきりと頷いた。
「見たよ」
彼は笑ってはいなかった。
「どんな、オバケだ?」

 

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