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「もちろん、楓ちゃんみたいには行かない。とても一度に何人も覚えられない
からね。小刻みに一番組に一人とか二人とか、少しずつ覚えるんだよ」
「正直言って、深夜の番組は見ていて辛いものも多いけど、ある程度の流行は
知っておきたいからね。頑張るの」
「すっげぇな」
「本当に」
「でも、何でですか?」
田岡が尋ねる。それは当然の疑問だった。老いた二人には知る必要のない流行
だ。今時の子供のはやり廃りなぞ、町工場を営む老年期に入った夫婦には全く
知る必要がないのだ。節子はまず、満ちた笑みを浮かべた。
「結局のところ、自己満足なのよね」
彼女の言わんとするところは田岡にはわからない。それを知っているように、
守が微笑み、言い添えた。
「ちょっとだけでもかじれば、楓ちゃんの生きている世界が本当に大変な競争
世界なんだって、何となくだけど、わかるじゃないか」
「はぁあ」
合点が行ったのか、田岡は妙な声を上げた。
「新曲を出す度、いつもいつも同じように売れるっていうのがどんなに大変な
ことで、一筋縄じゃ行かない世界なんだって、想像は付く。ただ、それだけの
ことなんだけどね」
「そう。だから自己満足なのよね」
「でも、苦労の程が理解出来ないことには、褒めてもあげられないからな」
「ねっ」
「そんなに楓さんのこと、心配しているんすか」
「だって、生き甲斐だもの。苦じゃないわよ、喜びなの。楽しいんだから」
節子はそう言い切ったし、傍らの守も一切、否定しない。それが自分達の意志
なのだと二人は信じているようだ。しかし、麻木には正直、そんな兄と義姉の
心がいつも理解出来なかった。二人にとって、楓は甥にすぎない。兄にとって
は唯一の甥だが、節子には他に甥も姪もいるはずだ。だが、彼女は他の甥や姪
に関心を示したことがなかった。
なぜだ?
麻木が考えてみる間もなく、それについて考える機会は失われたようだった。
「廉君がいらっしゃいましたよ」
 まち子が廉の到着を知らせに来たのだ。麻木が自分にとってのたった一人の
甥っ子の顔を思い浮かべている間に兄夫婦はすっくと立ち上がった。まるで廉
が来たと聞いたから立った、それ以外には理由が考えられないほど、ピタリと
タイミング良く。両親である二人。とりわけ、母親である節子が不快げな顔を
することが麻木にはまるで理解出来ない。母親は大抵、息子に強い執着を示す
ものだ。あの四人の変質者の母親達でさえ、我が子の死を悼んで泣いたのに、
節子は同じ反応を示さないような気さえする。
あんな変質者でも、奪われれば、母親だけは悔しいはずなのに。
 四人の母親は皆、自分の息子が楓に対して異常なまでの執着を示し、挙句、
犯罪紛いのことを日常的に繰り返していると承知していた。それでも、そんな
異常には気がつかない顔で彼女達は息子を愛していたし、事件後も他の誰より
ましだと言い張った。見苦しい。だが、何もかも息子の身の上のことなら肯定
出来る、あの図々しさこそが母親の能力なのかも知れない。しかし、節子には
それが微塵もなかった。彼女は兄の良き妻だが、廉の母親という側面を感じた
ことは正直、ない。彼女には可愛い甥はいる。だが、息子はいないのではない
か。うっかり、そう疑うような振る舞いようなのだ。
「あなたが呼んだの? あの人、もう何年も、こんな席へは来なかったのに」

 

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