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「おまえ、しばらく休んだ方がいい。疲れているんだろう。事務所にはオレが
言ってもいいから」
楓は無表情なまま、父親を眺めている。父親に自分の話が通じないもどかしさ
など、既にない。先程まで瑞々しく輝いて、澄んでいた目は曇り、まるで目の
中に霧が立ちこめてしまったかのようだ。深い山中のようにその視界は薄れ、
遠い異界と化していた。麻木はその変化にたじろぎ、しかし、下手な言い訳で
楓の機嫌を取り繕おうとは思わなかった。悲しいことだが、今の楓は病人なの
だ。
「妄想だって、お父さんは言っているんだね」
楓は自ら、真っ先に結論を口にした。そこににじんでいるものは怒りだった。
静かな分だけ一層、性質が悪そうな、湿った怒りが目に浮かんでいる。麻木は
自分のやり方には後悔を感じていた。麻木は焦り、事を急いてしまった。頭の
良い楓が一旦、悪い方へ勘ぐってしまったなら、麻木なんぞがいくら弁解した
としても、納得させられるはずがなかった。麻木は元来、口が回るタイプでは
なく、楓は元々、理屈っぽいのだ。
「つまり、僕の気がおかしいって言いたいんだ」
断定的な口調に麻木は思わず、怯んでいた。
昔。
思い出す。楓が大学を卒業後、歌手になると言い出した時、教授は泣きながら
麻木を責めた。親として恥ずかしくはないのか。あんたの息子は間違った道へ
踏み出そうとしている。親なら例え、全治に一年かかる怪我をさせてでも阻止
してやるべきだ。それが我が子の、楓君のためじゃないか、そう叫んだ。楓を
説得出来ず、やけになっていた彼の腹いせめいた無茶苦茶な言いぐさも、今と
なってはその通り、正論だったのだと思う。あの時、無理にでも翻意させて、
従兄の廉と同じ道を歩ませておけば、こんなことにならなかった。不特定多数
の視線にさらされることも、当然、余計な危険を身に集めることもなかったの
だ。
「そんなこと、思っちゃいない」
「じゃあ、何? 明日、入院しろって言いたいの?」
「そうじゃない。話が飛躍し過ぎだ」
「僕の頭がおかしいって、そう言えばいいでしょ? 他人にばれる前にどっか
山奥にでも隠したいって思っているんでしょ? ばれると体裁が悪いから」
「そんなことは一言も言っていない」
「お父さんは回りくどいから、未だ言っていないだけでしょ? どうせ、その
内言うんなら、早く言えばいい。言いたいことはその場で端的に言えばいいん
だ。探り合うなんて時間の無駄じゃないか」
 楓の怒りは彼にとっては正当なものだ。いくら利口でも、この状態で自分の
ダメージの深さに気付くはずはない。麻木は悔やんでいた。楓が病に侵されて
いるともっと早く認知し、一刻も早く、そう楓が自分の心の具合を疑ったり、
不安に駆られる前に休養させ、治療を受けさせてやれば、こんなにまで深く傷
付けずに済んだのだ。
オレが悪いんだ。こんなに興奮させて、自分を追い込ませた。
こんなことになる前に気付いてやれば。治療を受けさせてやれていれば。
今更、悔やんでも仕方がないことだと思う。
これからが大事なんだ。

 

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