自分の店に残ったままの、客のいた痕跡。皿やグラスの片付けは翌日に持ち 越されていた。従業員には定刻に帰らなければならない理由がある。彼らには 皆、帰宅が遅れれば、心配して電話を掛けて来る家族がいる。 「それに。いつもより若干、多かっただけのことだし。はしゃぎ過ぎちゃった のよね。毎年、店の者まで楽しませて貰って、申し訳ないくらい。明日って、 言うか、今日ね、少し早出すればいいだけよ」 時計の針は十二時六分を指していた。荘六はあくまでも集合場所を兼ねた一時 的な食事の席であり、今頃は九鬼と廉を除いた、仲の良い顔ぶれだけで楽しく 二次会を満喫しているだろう。そして、そこには事務所の社長も加わっている はずだ。社長の今井は例年、荘六で開かれる一次会には参加しなかった。いつ だったか、疑問に思い、その理由を尋ねると、麦田は苦笑いを浮かべ、答えて くれた。 「社長、酒乱だから。ビール三本で変身して、暴れ出すんだからかなわない。 邪魔でしょうが、そんな奴。だから皆が酔っ払って、もう何でも良くなった頃 に出て来いって、ふうちゃんに言い渡されてんの。しらふの時にやられると、 座がしらけちゃうからね」 「楓の言い分は通るものなのかね?」 「当然でしょ。間違ったことは言わないし。それに社長は前科があるからね」 「前科?」 「酔っ払って、あのふうちゃんに抱き付いて、絡んだらしいよ。命知らずだよ ね、あの人。当然、逆鱗に触れちゃったらしくってね。なだめるのにそりゃ、 苦労したらしいよ」 小太りの今井が細身の楓に必死に謝罪する姿は哀れを誘ったことだろう。事情 を聞くため、訪ねた際以上の大汗をかき、頑張る姿が容易に思い浮かぶ。鷹揚 に構えているふりはしていたが、今井はかなり緊張していた。いくらなんでも 空調が整えられたオフィスでは不自然なほど、彼は汗をかいていた。 ___今頃、さぞかし驚いているんだろうな。まさか、事情を聞きに来たあの 小生意気な若い刑事と一緒に忘年会をすることになるとは思ってもみなかった だろうからな。 「ねぇ、旦那」 麻木はふっと我に返った。呼ばれるまで、もう何十分も、隣り合って座って いるにも関わらず、まち子のことなど正味、忘れていた。彼女と話をしていた ような気もするが、何の記憶も、感触も残ってはいなかった。 「元気ないわね。楓ちゃんとケンカしているから?」 「別に。ちょっと飲み過ぎただけだ。普段は飲まないからな」 まち子は麻木の返事など、聞いていないようにため息を吐いた。 「お兄ちゃんも酔いさえ、醒めたら帰っちゃうのね」 酔ったまち子は子供の頃のように麻木を呼んだ。 ___オレは酔っちゃいない。 そう麻木は一人ごちる。 一次会が終わり、皆が荘六を後にする時、麻木はそこで別れて、帰宅する気 だった。より騒がしい二次会では到底、楓と話す機会は持てないと考えたから だ。そんなことなら、どうしても立場上、周囲に気を遣わせる自分が長居する 必要はないはずだった。しかし、店先で酔ってもいないのに軽い立ちくらみが して、よろめいた。だから、ここ、荘六で一休みして帰ることになったのだ。 立ちくらみ。健康な身体には考えつかない症状だ。 ___もしかしたら。あいつに無視されて、オレは自覚しているより、ずっと 強いショックを受けていたのかも知れないな。 何でもないような足取りで立ち去る楓のグレーのコートの背中を見送っている 内に視界が揺れ始めたのだから。 |