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「大丈夫ですか?」
近くにいた小鷺が目敏く気付き、大声を上げたがために楓は振り向いた。それ
から一瞬の内に、誰がどんな状態に陥ったのかを見取り、大事ではないと判断
したのだろう。ちらとこちらを見やった、それだけだった。さっさと進行方向
へ向き直った楓の代わりか、隣にいた麦田が仲間達の群れから抜け出して駆け
寄って来た。
「大丈夫? おじさん、酔っちゃった?」
彼は生来、人懐っこい気性なのか、はたまた楓の父親だと親しんでいるのか、
麻木を近所のおじさんだと思っているふしがある。
「いや。酔っちゃいないよ」
麻木の返事に麦田は笑って返した。
「酔ってるって、自覚も出来ないようじゃ、本当に酔っぱらっているんだよ。
じゃ、女将さん、しばらく預かって貰えますかね? 酔いが醒めたところで、
放り出してくれたら結構ですから」
「ええ。お安い御用だわ」
麦田は立ち上がろうとする麻木を制するような恰好を取りながら、そっと麻木
に身を寄せて、少し声を落として言った。
「そうしてやってよ。ふうちゃん、気にしているよ。ケンカしているから駆け
付けて来られなかったんだよ、あいつ」
間近で見る麦田は優しそうな目をしていた。妻も子もいる、平穏な家庭の主。
彼と楓とでは、何が、どう違うと言うのだろう?
「あいつ、ケンカし慣れていないから謝ったり、仲直りしたりは苦手なんだよ
ね。顔のわりに変なところで強情だし。しらけた顔していたって腹の中じゃ、
困り果てているに違いないんだから。親なら誰より、知っていることでしょう
? だったら察してやってよ。少し落ち着いてから帰ってやんなよ、ね」
それだけ言うと麦田はパッと明るい笑顔を作り、
「酔った勢いで女将、口説くなよ」
そう軽口を叩いて、けたけたと笑いながら駆け出して行った。元気そうな麦田
の背で長く伸ばした茶髪が大きく左右に揺れながら、次第に小さくなって行く
のを麻木は黙って見送った。
 正月、楓宛に麻木の一人住む家に届く麦田の年賀状は毎年、決まって家族の
記念写真だった。その幸せそうな家族の笑顔を見る度、麻木は内心、いつ楓は
結婚すると報告してくれるのだろうかと、自分の現状を寂しく思ったものだ。
正直、麻木には着々と幸せな家庭を築いて行く麦田と、独りぼっちでいる楓と
の違いがわからない。経済的には楓の方が桁違いに豊かだし、楓に欠陥がある
とは思えない。今は精神的に病んでいるのだろうが、回復すれば問題はない。
だが、病む前の楓にも、家庭を求めているような気配はなかったように思う。
時々、本当に麻木という父親がいれば十分と思っているのではないか、そんな
不安に駆られるほど、楓は他人に関心を示さなかった。
___おかしな話だよな、もてるだろうに。
「お兄ちゃん、また楓ちゃんのこと、考えているの?」
もし、麦田が気遣って勧めてくれたのでなければ、楓が本当は心配していると
言われたのでなければ、麻木は荘六で休もうなどとは夢にも思わなかったこと
だろう。まち子と二人きりになるつもりはなかった。それも、酔った彼女と。
「お兄ちゃん、今、帰りたそうな顔をした」
「別に」
「誰もいない家に帰りたい? 昔だったら楓ちゃんが待っていただろうけど、
今は誰もいないのに。それでも家に帰りたい? そんなにまち子と一緒にいる
のは嫌なの? まち子とは一緒にいたくないの?」
「酔っぱらいのまち子とは、な」

 

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