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 席を立とうとする麻木の肘をまち子はギュッとばかりに掴んだ。そう簡単に
放してくれそうにもない剣幕だった。そう言えば、幼少期、いささかしつこい
ところがまち子にはあったように思う。残念ながら長い年月がその欠点を洗い
流すことはなかったらしい。
「まち子のことが嫌いなの? ねぇ? ねぇ?」
髪はほつれ、酒の臭いをさせた息を弾ませ、食い下がるまち子は不憫なまでに
老けて見えた。
いや。
客の目がなくなり、素に戻っただけなのかも知れない。現実の年相応に。隣家
の少女は五十も半ばの女になっていた。身よりもなく、こんな時間まで毎晩、
一人、働き続ける女。こんな深夜に一人きりになってしまうまち子。誰一人、
彼女の帰りを待つ者などいないのだ。そう思うと、くたびれ果てた彼女の酔い
まで哀れに見えて、麻木は彼女の手を振り解いてまでして帰れなかった。
「ねぇ、まち子のことが嫌いなの?」
「おまえを嫌う奴なんかいないよ」
「本当?」
望みの返事を得るなり、途端にまち子は嬉しげな顔に変わり、今度は甘えて、
拗ねた口調にすり変える。
「でもね」
それは子供の頃から少しも変わらないまち子のパターンだった。
「節子さんはまち子を嫌っているでしょう?」
彼女は自分の欲しい、望み通りの返事を導き出そうとしているだけだ。麻木は
やるせない気がしていた。彼女のやり方は少女の頃から既に完成していたとも
言えるものなのだ。
「まち子が美人だから、だろ」
そう言ってやるとやはり、まち子は満足そうな目を見せた。
 不幸な家庭に生まれ育ったためか、生まれついての性質なのか、それは麻木
には計りかねる所だが、まち子は何が何でも自分の容姿を褒めそやされたいと
望む少女だった。美人だとか可愛らしい娘だとか、そういった評価されること
が彼女の欲する喜びの全てだったのだ。誉められることで、ようやくまち子は
安心して、自己にも良い評価を下せる。そうやって初めて、恵まれない家庭の
現実を忘れ、将来に希望を抱くことも出来たのだろう。
「でもね」
まち子は冷えた声を吐き出した。
「美人でも、節子さん、あの人には親切だったわ」
まち子が誰のことを言っているのか、麻木にはすぐにわかった。
 一体、いつのことからだろう、まち子がカホへ敵対心を見せるようになった
のは。三十五年も前に死んだ女に向けてまち子が見せる対抗心を麻木は正直、
どう思えばいいのか、そんな見当も付かなかった。カホが生きている頃、二人
には接点がなかったはずだ。麻木とカホは自分達の生活に夢中だったし、すぐ
にまち子も荘六の主人と結婚した。カホが急逝し、その後、荘六の主人が不慮
の死を遂げた頃にはお互い、自分の生活で手一杯であり、当然、会うことなど
なかった。楓が学校に上がる頃になってどこかでひょっこり出会し、それから
麻木は楓を連れ、時折、荘六を訪れるようになった。つまり、まち子の口癖で
ある『赤ん坊の頃から楓ちゃんを知っている』という決まり文句は大袈裟な、
言ってしまえば、嘘なのだ。だが、その当時からずっとまち子はカホのことに
は一切、触れなかった。楓を気遣っていたのかも知れないし、麻木に対しての
遠慮だったのかも知れないが、カホの話はしたことがなかった。ならば、この
敵対心は一体、いつ、どうやって、芽生えたものなのだろう? 
「節子さん、あの人にはすっごく優しかったじゃないの?」

 

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