まち子は麻木の肘をしっかりと掴んだまま、怖い目で麻木を見つめ、答えを 待っている。確かに節子はカホに対しては何の敵意も示さなかった。しかし、 そんなことをなぜ、当時、付き合いのなかったまち子が承知しているのだろう か。しばし考え、麻木は思い付く。まち子は隣家の娘だ。実家に戻れば、隣の 家の日常は耳にしたやも知れない。 「ねぇ、どうして?」 「どうしてって、カホは妊娠していたじゃないか。産後の義妹を労らない義姉 もいないだろう」 麻木にしては要領を得た回答のつもりだったが、それでもまち子の目の硬さは 一向に解けない。こんな程度の言い方では納得出来ないらしかった。仕方なく 麻木は言い直してやることにした。自分が無事、ここから開放されるためには そうせざるを得なかったのだ。 「それに、義姉さんはまち子が嫌いで意地悪をしているわけじゃない。おまえ とは気安い間柄だから、虫の居所が悪い時には八つ当たりすることだってある んだろう。おまえには悪いが、そんなの、甘えているのと同じだろ?」 「本当? 節子さんはあたしに気を許していて、それで甘えているのね?」 まち子はパッと顔を輝かせ、ようやく麻木の肘を掴んだ手の力を緩めた。 「じゃあ、節子さんがまち子を大嫌いなんじゃなかったら、あたし、いつか、 本当にお兄ちゃんと」 うかされたようにそこまで口走り、まち子は訝しそうな麻木の視線に気付いた らしく、ハッとして口を噤み、にわかに女将らしい柔らかな笑みを取り戻した 。その自信たっぷりな、きらきらと光る目は彼女を瞬時に瑞々しく蘇らせる。 余裕たっぷりな、女の顔に。 「それじゃ、また来る」 麻木は一刻も早く、その笑みから逃れたかった。早口に別れを告げて、急いで 席を立つ。 「うん。待っている」 まち子の笑顔は美しい。だが、麻木は恐怖に似た感覚に追い立てられ、慌てて 店を出た。そして漠然と二度とここへは来ないだろうと感じてもいた。 麻木が逃げるように向かう先。近隣がすっかり寝静まった夜更けの我が家は 小さく、木々に覆われ、ひっそりと身を潜めていた。楓が大学を卒業して半年 ほどでデビューするまでの、長い間、ずっと二人で暮らした家。気付くともう 十三年も麻木一人で暮らす家だった。一階に二間と台所、風呂。二階に一間。 ___こいつも、家も寂しがっているんだろう。 家だって、きっと四六時中、家族のいる、にぎやかな生活を望んでいる。誰も いない時間ばかりが長いこの家は周りの家より小さく、縮んで見えた。まるで 冬の暗い寒さに懸命に耐えているようだ。そしてそれは自分の姿のように麻木 には思えた。この家に、麻木は一人ごちる。まち子を迎えるべきなのだろうか ? まち子が夫の死後、ずっと一人でいる理由を考えてみたことがないわけでは ない。自惚れでもないと思う。確かにまち子はそのつもりでいる。だが、自分 はどうだろう? プロポーズするつもりはない。だからこそ、今日まで彼女の 素振りに僅かでもそんな自信が垣間見えたなら、いつだって麻木は恐れをなし て、即座に逃げ出して来た。しかし、それでも麻木はまち子と絶縁したことが ない。彼女は麻木との再婚を望んでいるのではないか、そう疑い始めた時から 麻木は荘六を、まち子を避けている。それにも関わらず、楓に食事に行こうと 誘われた時、麻木が口にしたのは荘六の名だった。何を今更、そう頑なに自制 する必要があるのかと、自嘲もしている。だが、退職間際の今になって、女に プロポーズする気にはなれないし、第一、まち子と自分の間にそんな縁はない とも思うのだ。 ___まち子、か。 |