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 ようやく取り留めのない考え事に踏ん切りをつけ、立ち上がり、麻木は短い
廊下を進んで茶の間に入る。暗がりの中でも手は当たり前にスイッチを入れる
ことが出来る。楓がいなくなってからは毎晩、こうして自分で電気を点けねば
ならなかったからだ。白い照明に照らされた部屋はホッとしたというような、
いつもの顔で麻木を見守っているようだった。もしかすると部屋も家族が無事
に帰るまでは不安な心地でいるのだろうか。
___馬鹿な。オレも疲れているんだな。
水を飲むために台所へ行こうとして、ふと麻木は足を止め、それから首を捻り
ながら、窓を覆うカーテンへ目をやった。確かにその方向でぴしゃりと小さく
音がした。木々に隠されて目立たないが、庭には小さな池があり、中には鯉が
三匹潜んでいる。楓が十歳かそこらの時、買い入れたそれ。無愛想な養鯉家は
面倒げに出て来て、さもうさん臭そうに麻木を見やった。だが、麻木の足下に
いる楓の笑顔に気付くなり、彼は機嫌を良くして、楓のためにと念入りに三匹
の稚鯉を選んでくれたのだ。あの時、子供相手に楽しそうに鯉の話を聞かせる
年配の男の横顔を見ながら麻木は漠然と考えた。親の欲目なんかではなく、誰
が見ても楓は特別、可愛らしいのだ、と。だが、こんな時間に鯉は水面にいる
ものだろうか? 不審に思い、麻木は茶の間のカーテンを開けて、掃き出し窓
から庭へと降り立った。薄く漂う外灯の明かりの下、池の縁に腰掛けた人の背
が見える。
「何をしているんだ?」
「考え事」
言われてみれば、その通りなのだろう。彼は昼夜に関係なく、よくそんな恰好
でボンヤリとしていた。時々、頭が飽和状態になる、だから、それを解消して
いるのだという、以前、教えてくれた理屈はいつまで経っても、麻木には理解
出来ないままなのだが、彼ほどの抜群の記憶力ともなるとメンテナンスは放心
すること、それのみなのやも知れない。
___別次元の話だからな。
昔、楓の茫然と過す後ろ姿を麻木は頻繁に見ていた。彼にとってはたわいない
日常なのかも知れない。だが、今は真冬の、それも深夜なのだ。池の水に素足
を突っ込んで、じっとしているなんぞ、馬鹿げた自虐行為に他ならない。
「もう、やめろ。早く中に入るんだ。風邪をひくじゃないか」
「うん。足を洗ってから入るよ」
暗い声とはいえ、楓は返事をした。それは麻木を喜ばせる吉事だった。だが、
それでも楓は身動きはせず、今すぐには部屋に戻りそうになかった。仕方なく
麻木は一足先に家に戻り、風呂を沸かし、ストーブをつける。ようやく部屋が
暖まった頃、楓はのろのろと入って来た。青ざめ、表情のない顔はあのポスタ
ーそのままだった。麻木にとってはなじみがなく、世間には認められた、身体
の中が空っぽの人形のような顔。父親にとっては見るに忍びない姿だ。
「暖まって来い。早く」
思わず怒気を含んだ父親の声にこくり、と頷いた楓の心中を測ることは麻木に
は出来なかった。やがて生気もないまま、戻って来た楓は暖められた茶の間で
はなく、隣の暗く冷たい仏間に座り込んでいた。お茶を入れて台所から戻った
麻木が気付いた時、驚いて息を呑むほど、寒い暗がりに溶け込んで。乾かそう
ともしなかったらしい髪が見る間に冷えて凍って行く姿を見て、麻木は黙って
いられなかった。
「何やっているんだ? 来い。風邪をひくじゃないか」

 

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