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「お父さん」
「何だ?」
「お父さんに言っておきたいことがあって、それで来たんだ」
来た、という言い方に麻木は今、こだわっていられなかった。明るい茶の間に
向けた麻木の背は暖かい。しかし、楓の座る暗い仏間に面した顔は酷く寒い。
居たたまれなくなるような寒さだった。麻木はただ、二つの部屋の境に立って
いるに過ぎない。それにも拘らず、まるで日常と非日常の境界線の上に立って
いるような気さえ、する。種々雑多な日用品が詰め込まれた茶の間は地上だ。
そこは煩わしく、そして暖かい。一方の、何も置いていない仏間はまるで遠い
月面のように見える。無音の、恐ろしい非日常だ。そんな音もないような寒い
部屋に正座したまま、楓はじっと父親を見上げた。
「僕ね」
重い口を開き、どうにかそう切り出したきり、楓は口を閉ざして、次の言葉は
出て来なかった。麻木には俯いたまま、顔を上げようとしない楓の心情を推理
してやることが出来なかった。どうでもいい、捨てればいいだけの過去の出来
事は分析の真似事まで出来るようになった。それなのに今、目前にいる息子の
心中がわからない。それどころか、自分が楓をどう思い、どうしたいと思って
いるのか、それすらわかっていないように思うのだ。
「とにかく。楓、こっちへ来なさい。冷えてしまうから。お茶を入れたんだ。
それを飲んで、身体を温めた方がいい。早く」
促され、楓は諦めたようにため息を吐く。
「やっぱり、今日はやめておく」
 放棄し、いっそ、気楽になったのか、楓は脚を投げ出し、掲げられたカホの
写真を見やった。母親の遺影の下で楓は一体、何を父親に話すつもりだったの
だろう? 
「ねぇ」
「何だ?」
「お母さんって、どんな人だったか、覚えてる?」
「ああ」
「僕、お母さんに似てるかな?」
麻木は即答しなかった。
 楓は死んだ母親に関しては何一つ尋ねたことのない子供だった。見覚えすら
ない母親に興味を持てなかったのか、それとも再婚しない父親に遠慮していた
のか、その辺りはわからない。だが、楓は滅多なことではアルバムすら開いて
みようともしなかった。そんな楓が今になって、母親に付いて話す意味が計り
かねた。
「ねぇ、どうなの?」
「そうだな」
楓の真意はわからない。ただ、麻木は正直に答えようと腹を決めた。
「顔立ちはあんまり似ていないな。お母さんの方が強い顔をしていたからな」
麻木はそう言いながら妻の遺影を見上げた。写真の中のカホは歳を取らない。
結果、既に彼女の息子より、ずっと若くなっていた。
「この写真は、そうだな。お母さんらしくないと言うとおかしいが、柔らかい
顔をしている。だから選んだんだ。これがお母さんの内側にある、本当の顔の
ような、そんな気がしてな」
写真のカホは優しげに微笑んでいて、まだお嬢さんらしいのんびりとした面影
を残していた。その彼女は幸せそうだった。楓が生まれた翌月に家族で撮った
写真の中から抜き取った一枚。その唇は豊かで、今にも何か喋り出しそうだ。
誰とも、たった一言交わすことも出来ずに、この世から一人、旅立った妻には
何か、言い残したことがあるのではないか? 時々、麻木は考えるのだ。もし
も。自分が彼女の死に目に会えていたなら、彼女は何を告げたのだろうかと。
豊かな唇を見る度、彼女には何か言い残したことがあるのではないかと思い、
それを聞き取ってやれなかった自分の非を思い出すのだ。
「おまえは、お母さんに似ている」
麻木は仏間に入り、楓の前に腰を下ろした。
「顔立ちなんかじゃなくて。オレを幸せにしてくれたって、そういう意味で、
おまえとお母さんは似ている。いや、同じなんだ。楓。オレはカホに出会えて
良かったと思うし、おまえがいてくれたから今日までやって来られた。だから
感謝している、カホにも、おまえにも」

 

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