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「大した意味はないんだとしても。でも。それでも今、聞いて欲しいんです」 「何を、だ?」 「楓が連れて来たバンドが今、レコーディングをしているんですが。ぼんくら の僕が見てさえ、“売れる”とわかる相当なレベルです。あの楓がこの忙しい 時期に一々、自分で見て、決めているから間違いないでしょう。でも、一体、 何のためだと思いますか?」 「おまえさんの言いたいことが見えて来ないんだが」 「平たく言いますよ。自分の引退後の事務所のために、です」 「引退?」 「ええ」 今井はうわずった声で言った。 「元々、今年四月からは仕事を入れていなかったんです。あんな事件があった わけだから、休養が必要だろうと。でも、楓はすっぱり辞めると言い出した。 辞めるからこそ、自分が辞めた後の事務所の経営と僕の立場を保つために幾つ も幾つも手を打ってくれ始めたんです。ありがたい話です。でも、僕は」 今井はこみ上げて来る感情に喉を詰まらせる。 「気が済むまで休業してくれればいいんです。事件が解決するまで何年でも、 いつまででも休んでくれていい。籍だけ、今のまま、僕の事務所に置いていて くれさえすれば、それでいい。僕は楓を失いたくないんです。だって、仕事を 辞めてしまえば、もう会えなくなるわけだから」 麻木は泣きじゃくる今井のぷくぷくとした丸い手を見ていた。菓子の袋を破る 子供の手のようだ。何とはなく、そんなことを思う。だが、なぜ、彼はこうも 子供のように声を上げ、泣くのだろう? 楓が仕事を辞める。それだけのこと ではないか? 楓が自分の開ける穴を埋める新人を自ら用意し、事務所の経営 に支障が生じないのなら、大の大人が泣くほどのことではないのではないか? 友人として会えば、それで済む話なのではないのか? 「辞めたって、また会えばいいじゃないか? 大袈裟な」 「いいえ」 今井は強く否定する。 「そうじゃありません。仕事と言う正当な会う理由がなければ、楓は決して、 二度と僕には会ってくれない。だって、楓は僕が、僕が結婚しなかった理由を 知っていますから」 麻木は息を呑み、反射的に席を立った。 嫌悪感で胸がいっぱいになる。頭も怒りで血管が塞がれ、血が流れていない ような痺れさえ覚えた。それでも、どうにか自分のコーヒー代を払い、人気の ない暗い道へ飛び出した。楓のもて様くらい、四つの他殺体を見て知っている つもりだった。だが、実際、生身の人間が内包する感情として、目の当たりに してしまうと、それまでの想像を絶する不快感に襲われた。不愉快この上ない のだ。 ___そうだ。今までは馬鹿共が死んだ後で所詮、生前の感情を推察しただけ で、別に生の、生きた感情に触れたわけじゃなかった。 それだからこそ、今、初めて、麻木はこうも憤っているに違いないのだ。 ___何だって、どいつもこいつも楓に惚れるんだろう? 悪い虫ばかり引き 寄せるあいつ本人にも何か、問題があるんじゃないだろうな。いや。まさかと 思うが、人を狂わせる、惑わすような、妙なガスでも発散しながらそこら辺、 歩いているんじゃなかろうな? 不快の余り、息子にまで怒りの矛先を向けながら、早足で歩く麻木を今井は 追って来た。 「待って下さい、麻木さん。待って」 今井を待ってやるつもりなど毛頭、なかったが、未だ若いだけあって、見た目 よりは敏捷で首尾良く麻木に追い付いて来た。 ___よりにもよって、こんな所で。 そこは期せずして、青田の死体が捨てられていた、その公園前だった。そんな 場所で麻木は、もしかすると青田らと同類かも知れない今井と向き合って立つ ことになってしまったのだ。 「誤解しないで下さい。僕は楓に乱暴な真似、していません。あの四人みたい に楓の迷惑を顧みないようなことは断じて、していない」 「そうだろうな。あいつの正当防衛はきついからな。よほどの馬鹿でなければ 襲うまいよ」 今井は背筋に力を入れ、こわばった顔で頷いた。 「ええ、知っています。エレベーターで酔っぱらいに抱きつかれた時には蹴り 飛ばしたし、どう見てもヤクザって感じの男の頭を蹴ったのは有名な話だし」 |