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今井は古い話を思い返そうと躍起になっているらしい。
___楓だったら、雑作もないことなんだろうが。
何にしても、もう自分には関係のない話だろう。息子の所属する会社の社長で
もなければ、麻木が今後、この男と会う可能性はないに等しい。
「そうだよ。確か、どっかの美容師だった。あいつら、どこにいるって言って
いたっけ? どうせ嘘っぱちだと思っていたから覚えてもいないけど。でも、
本当に似ている、兄弟なんじゃないかって当時、大した騒動になったんだよ。
見に行った奴も多かったし」
ほとんど未来永劫、楓を失うことになるショックからか、呆けたように何やら
昔話を呟き続ける今井の奇行に付き合ってなどいられない。すぐそこで明るく
瞬くウィンドーに貼られた楓のポスターを見てしまい、その顔の待つ我が家に
麻木は帰りたくてたまらないのだ。
「じゃあな」
それだけ言い捨てて、麻木は早足で歩き始めた。いるわけがないじゃないか。
そう一人ごちながら。
 楓の身代わりが務まる人間などそうそういるはずがないし、ましてや楓と瓜
二つの人間など存在するはずもない。代わりを捜せなどとは所詮、哀れな今井
に慰めを言ったに過ぎなかった。急きながら麻木はふと、自分の提げた荷物に
気付いた。そう言えば、楓の着替えを取りがてら植木の様子を見てやろうと、
空っぽの小さなボストンバッグを提げて出て来たのだった。
___仕方ない、早く済ませるとしよう。
楓のいない、彼のマンションへと方向転換せざるを得なかった。

 それにしても。正月で出払っているのか、マンションはいつにも増して静か
で、まるで廃屋のような感さえ、漂っている。住人どころか、いつもの警備の
顔ぶれすらいず、見慣れない警備員がすんなりと通してくれたような有様だ。
あまりに静かなためなのか、麻木は普段なら決して、思い付かないだろうこと
を思い付いた。楓のように階段を使ってみようと考えたのだ。気まぐれの赴く
まま、静かな、人気のない階段を登りつつ、麻木は本当に楓や小鷺以外の住人
がいるのだろうかと馬鹿げた心配までしてみた。何しろ、小鷺と、従兄の家を
訪れる真夜気くらいしか面識がないままなのだ。
___空室が多いのかな。投機用に買って放置しているだけなのかな。
そんなことを考えながら四階へと差し掛かった所で麻木の足は止まった。耳に
突いたのは一際、よく通る独特な声だった。 
「どうして、おまえはそうまで不甲斐ないんだ? ちょっと出掛けたくらいの
ことでおたおたして、情けない。そんなに心配なら繋いで飼えばいいじゃない
か」
特段、声を張り上げているわけではない。だが、その男の声だけははっきりと
聞こえ、もう一人、相手側の答える声は内容までは聞き取れない。だが、その
若い、聞こえ難い方の声に麻木は聞き覚えがあるようだった。
___誰だ? 
この声は確か。麻木は積極的に立ち聞くわけにはいかないと自省しながらも、
二つの声の主、その正体に強く気を惹かれ、立ち去ることもしたくなかった。
未だ、見ぬこのマンションの住人なのではないかと思うと、どうしようもなく
興味が湧いて、惹かれてならないのだ。
「あいつ、おまえのどこに不満があると言っているんだ?」
聞こえる方の声の主は麻木と同年代だろうか。高圧的な物言いがすっかり板に
付いていて、普段から誰に対してもそんな口を利くのだろうと思わせるものが
ある。独善的な、嫌な物言いだった。
「言うことを聞かないなら、さらってでも取り敢えず、おまえの部屋に入れて
置け。そうすれば、そんな余計な心配をせずに済むじゃないか。言いくるめて
洗脳してでも向こうがおまえに惚れるようにし向ければいいんだ」
「そんな無茶、言わないでくれよ」
麻木はようやく若い声を鮮明に聞き取った。
___この声は、小鷺だ。

 

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