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「お父さんてば、飲み過ぎだよ。正月だからって、朝から一日中飲んでばかり
いたから、そんなことになるんだよ」
「うるさい。おまえが不甲斐ないからだ。何で、おまえばかりが」
「ああ。もうわかった、わかったよ。もうやめようよ。仰る通り、僕が不甲斐
ないのが悪いんだ。ミーヤが三日も四日も帰らないからって、あんなおろおろ
おろおろ、うろたえちゃって。そりゃあ、恰好悪いよね。みっともないよね」
「おまえが下手に出るからつけ上がって、ますます言うことを聞かないんだ」
「だって、惚れているのはこっちなんだよ、仕方ないじゃないか? 向こうは
何とも思っちゃいないんだから」
「いいや。まんざら、脈がないわけでもないはずだ。わたしが行って、直接、
話を付けてやろう。そんなら話が早い」
「ま、待ってよ。やめてよ。そんなこと、絶対、しないでよ。今日のところは
一旦、帰って。送って行くからさ。また今度の機会に話を聞いてよ。ね?」
「わたしは酔っちゃいないぞ」
「酔っているでしょ? さっきから、ずっとそんなことばっかり言っているん
だから」
 二人の声がエレベーターの方へと遠離るのを待ち、麻木は再び、階段を登り
始めた。小鷺製薬会長ともあろう者がしたたか酔って口走った内容が本音か、
それとも酔い故の戯言に過ぎないのか、麻木には判断の付かないことだった。
だが、それでも一つ、わかることがある。彼はある意味、息子の理解者でいる
らしい。以前。小鷺は確か、父親は勘付いているかも知れない、そんなことを
言っていたはずだ。だとすれば、あの後、どういう経緯でか、父親には息子が
ひた隠していた事実が伝わったのだろう。そして、あらましを知った上で自ら
の常識を曲げてまで、息子の恋を叶えてやりたいと奮い立っているらしい。
___いやはや。
彼の神経は相当にタフなものだと麻木には思えた。
___オレだったら寝付いてしまう。やっぱり、さすが大手企業のトップとも
なると、考え方自体が柔軟なのかも知れんな。
ぼんやり、そんなことを考えながら麻木は楓の部屋に辿り着いていた。
「おいでなさいませ」
 立っていたのは霧吹きを手にした小岩井だった。彼は当たり前のような顔を
して、そこ、楓の部屋に立っていた。まるで第三者の留守宅に踏み入ることに
何の抵抗もないような笑顔で。麻木はまず、小岩井の神経を疑い、すぐに自分
の勘違いだと気付く。彼の侵入は仕事の一環だ。留守がちの楓が誰かの協力も
なしに、あれだけの植物を管理出来るわけがない。どうやらこの男が手伝って
いたようだ。
「留守中にお邪魔しまして」
「水やりかね?」
「ええ。事務所の方から四、五日はお戻りにならないと伺いましたので。空調
が効いていますからね。とても水なしでは保ちませんでしょう? 大切な植木
が皆、枯れてはいけませんから」
「手間を掛けて、すまないな」
「いいえ。これは楽しい仕事の一つですよ。あ、もしかして、驚かれましたか
? それは申し訳ありませんでした。そうでしょうね。いきなり他人がいては
驚かれるのが当然ですよね。電話でもして、承諾を頂いてから入るべきでした
ね」
「いや。あんたならいいよ、わざわざ、そんな手間まで掛けなくても」
「ありがとうございます」
小岩井は嬉しそうな表情を見せた。
 彼は自分の職務に忠実ならしいが、言動にはプロらしからぬところが頻繁に
垣間見える。年齢からすると、あまりに小慣れていない風情なのだ。小岩井の
行為はサービスと言うよりはむしろ、ただ、一庶民の善意から行っていること
に見えてならなかった。
「あんた、以前は何をしていたんだね?」
「何をって?」
「こういう仕事は最近、始めたんじゃないのかね?」
「ああ」
小岩井は気恥ずかしそうに頷いた。
「やっぱり、まだまだ素人臭いんですね。ええ、仰る通り、田舎で細々と商売
をしていたんですが、歳を取りまして。そろそろ息子や孫の近くで暮らしたい
と最近、出て来たんです」
「お孫さんがいるのかね」
麻木は自分の声に羨ましさが滲みはしないかと危惧しながら尋ねてみた。
「ええ。何人いても孫はいいものですよね。ありがたい事にもうじき五人目が
生まれるんです。それがもう、嬉しくて。仕事にも身が入ります。孫には何で
も買ってやりたくて」
「五人」
麻木は思わず、感嘆の声を漏らした。
___オレはと言えば、たったの一人でもいいから欲しいと思っているのに。

 

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