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 自らが妄想する惨劇に怯え、それでも奇蹟のごとき生還を待ち侘びるだけの
空恐ろしい時間をこんな情けない、老いぼれが耐えられようはずもない。楓が
今この時、どんな目に遭わされているのか。それを想像しながら、一秒だって
生きていたくはないのだ。
___オレにはそんな真似、とても出来ない。死んだ方がよっぽど楽だ。
ミャア。
予期しない鳴き声に仰天し、麻木は顔を上げる。猫はキッチンから白い身体を
揺すりながら悠々と歩み出て来た。ミャー。パピは麻木に挨拶するようにもう
一声鳴いた。楓の留守に潜り込んでいたのだろう。麻木は小鷺が父親を送り、
エレベーターで降りて行ったことを思い出した。彼は部屋に戻り、今頃はこの
大切な預かり物の猫を捜しているのではないか。そう思った途端、チャイムが
鳴らされた。小鷺に違いない。そう思い込み、気楽に玄関ドアを開けた麻木は
たじろがなければならなかった。なぜなら、そこに立っていたのは見慣れぬ、
大層な美人だったからだ。一瞬、楓の知人かと考えたが、そうではなかった。
「初めまして。私、四倉彩子と申します。唐突で申し訳ないのですが、家の猫
がこちら様にお邪魔しているのではないかと思いまして」
言葉は丁寧だが、心はどこを向いているのか、さっぱりわかりかねる不思議な
たたずまいだった。目自体に冷たさはないものの、生気もなく、絶望している
ようにも見える。整った美しい顔が台無しだ。麻木がそんなことを思うほど、
彼女の顔は暗く、憂いを帯びているのだ。
「猫って、パピのことかね」
「ええ。そうです。白い猫ですわ」
張りのない声を聞いていて、青ざめた顔は性格的なものではなく、病的なもの
から来ているのだと麻木は考え直した。
___未だ三十幾つだろうに。
「パピ」
麻木の後を追うように出て来た猫をいち早く見咎めた彩子が鋭い声を上げた。
「何しているの? 早く、早くいらっしゃい」
呼ばれたパピは麻木の膝下をすり抜け、サッと彼女の元へと飛んで行く。猫は
彩子のヒステリックな様子など、気にも止めていないらしく、ピタリとばかり
に黒いストッキングに包まれた彩子の美しい脚に身体を押し付けて、いかにも
甘えた様子を見せた。どうやらパピにとって彩子はごく親しい、好ましい存在
であるらしい。
___それじゃ。たぶん、真夜気あたりの、親族なのかな。
確かに裕福そうな、美女には違いない。麻木は軽く納得しながら、ふと、彩子
の足元を見、新たな疑問を抱いた。彩子は上等な、極めてシンプルなスーツを
着、つやのない黒いストッキングを履き、更に同様のパンプスを履いている。
彼女の年齢から見ても、新年早々であることを考えても、それはいささか奇怪
ないでたちと思えなくもない。まるで葬式帰りのようなのだ。
「お騒がせ致しました」
彼女は感情のこもらない口調でそう言いながら頭を下げ、次いで自分の背後に
近付いて来る気配に振り向くと、素早くそちらを睨んだ。
「どうして家へ連れて来ないのよ? 小鷺なんかに預けるだなんて」
「彩子んちには他にも猫がいて、パピが嫌うじゃん? こいつ、自分じゃ小娘
のつもりなんだから。このわたしに猫の子守り、させる気なの?ぐらいの勢い
じゃん?」
真夜気だ。彼はドア越しにニヤリと、麻木に笑って見せた。彼らしい挨拶とも
言えるだろう。
「小鷺がパピに触れるのも嫌だわ。汚らわしい」
「心配しなくとも、こいつが触らせやしないよ。それより、先に家に電話して
来なよ。旦那さんが心配している頃だろう?」
彩子は返事こそ返さなかったものの、真夜気の忠告には従うつもりのようだ。
簡単にパピを抱え上げると、六階へ続く階段の方へさっさと立ち去って行く。
鉄製の柵の向こう側に今夜も見慣れた花台だけが取り残されている。その前を
彩子は早足に駆けて行った。重病人にしては軽やかな足取りだ。やはり、身体
そのものが悪いのではない。そうだとしたら、彼女は一体、どこを病んでいる
のだろう、麻木がそんなことを考えながら彩子を見送り終えると、やはり彼女
が消えるのを待っていたように真夜気が口を開いた。
「すんごい美人でしょ? 見惚れたよね、顔にも、尻にも、脚にも、さ。未だ
現役だね、おじさん。フッ」
そう茶化しながら真夜気はいくらか疲れた笑みを浮かべて見せた。
「彩子のこと、感じの悪い女だと思わないでやってね」

 

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