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 真夜気はすっかり麻木と食事に行くと決めてしまった顔付きだ。
「彩子に言って来る。下で待っていてよ。オレの車、出してあげる。そいつで
びゅんと行こうぜ」
パタパタと麻木の返事も待たずに駆け出して行く真夜気の背には麻木になど、
こぼすはずもない気苦労が押し隠されているに違いない。麻木は一つため息を
吐いてから、改めて楓の荷物を取るべく室内へ戻った。彩子の青ざめた悲しみ
を前に普段通りの笑顔で接する真夜気の辛さを思うと切なくもあった。それは
根性なしの自分ごときに真似出来る芸当ではないのだ。
 ふと、麻木は考える。なぜだか当初、出会った時から自分は鷲のような顔を
したあの真夜気が好きだったように思う。彼が知り合ったばかりの見ず知らず
の自分に甘えて来ることがごく自然なことのように思えていたし、特に嫌な気
もしなかったのだから。
___不思議なことでもあるけどな。
感傷を振るい落とし、麻木は自らの果たすべき用事へと意識を戻した。

 真夜気の深緑色の車は大層、人目を引いた。麻木など、助手席に座っている
だけで身体中がこそばゆくなるような気恥ずかしさでいっぱいになる有様だ。
___到底、オレには似合わない車だな。
とにかく派手で目立つ、随分と高価そうな車なのだ。恐らくそんな高額の明細
を麻木は見たことがないし、残りの人生が長く、そうたっぷりともう四十年も
残っていたとしても、さっぱり無縁な額だろう。
「レプリカだから大したことないよ」
麻木の心中を見て取ったように真夜気は簡単に言ってのける。レプリカ。麻木
はヴィンテージよりは安いと納得はする。しかし、それでもそう易々と若者が
買える代物ではないはずだ。
「医者って言ったって、その歳じゃ、こんな車は買えまい」
「普通はね。これはオレの稼ぎで買ったんじゃないから。大体、医者っていう
のも嘘っぽいな。資格は持っているけど、今は家事手伝い辺り、かな」
冗談めかすように真夜気は笑う。長い受験勉強の果てに得た国家資格であろう
になぜ、真夜気はそれを最大限に活用しないのか? 麻木はその疑問を素直に
本人に尋ねてみようと思う。何故だか、真夜気にはそうすることが出来るから
だ。
「何でだ? 勿体ないじゃないか?」
「そうだな。でも、実際、医療の限界ってものを目の当たりにしちゃったから
ね」
真夜気は幾らか制限速度をオーバーしながら、それでも丁寧に車を走らせる。
「医療の限界、って?」
「妹二人が交通事故でやられちまったんだよ。死んじゃあいないけど、でも、
まぁ、それに準ずる状態。生きてもいない、みたいなね。回復の見込みはない
って、医者に匙を投げられてさ。オレの愛する数少ない人間を、肝腎の妹達を
救えない医療っていうものにもう興味が持てなくなった。ただそれだけのこと
だよ」
麻木は息が詰まりそうになっていた。真夜気の妹なら、未だあまりに若い姉妹
ではないか。
___あの匂いは。
初めて真夜気と擦れ違った時、鼻に感じたあの匂いは妹達の病室で身に移った
ものだったのだ。今夜も真夜気からは微かにその匂いが漂う。それは真夜気が
日中、意識のない妹達の側に長い時間、座っていたからに他ならなかった。
「我が家は奇人変人の巣窟でね。爺さんはここ四、五年は屋敷から出ていない
し、親父とは高校生の時、初めて口を利いたようなのりだし。おふくろはとう
の昔に逃げ出した。妹達でもいなけりゃ、あんな所、誰に、どんなに頼まれた
って近付きたくもない」
麻木は車窓のすっ飛んで行く景色のように自分の耳を通過して行く真夜気の声
を聞いていた。
___あちこち理解出来ないんだが。
真夜気の話には俄には理解出来ない部分がある。老人が家にこもりがちになる
のは珍しい事象ではない。老化による障害が理由かも知れないし、単に外出が
億劫になっただけかも知れない。母親が逃げたのも夫と不仲になり、離婚した
からだろう。残される子供達には気の毒な話だが、世間ではよくあることだ。
だが、麻木はもう一度、適当な推理を加えてみたものの、やはり“それ”だけ
は想像すらもおぼつかなかった。
「えっ。一体、いつ、初めて親父さんと口を利いたって?」
「高校生。そう言ったじゃん? ああ。凄いっちゃ凄い話なのか。そうだな。
驚くかもな。親子が同じ屋敷に住んでいて、めったに廊下で出会すこともない
んだからな。有り得ないのか、普通は」
真夜気は一人、納得した顔だ。
「おい。一体、どんなお屋敷に住んでいるんだ?」
麻木は半ば、絶句する。家族が顔も合わさず、何年も共生出来る屋敷。

 

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