真夜気との食事を終え、帰宅してみると、驚いたことに楓は玄関先で新聞を 広げていた。足下にはピカピカに磨き上げられた靴が三足。奥へと続く廊下は 光る膜でも張ったようにつややかで、一目で楓がつい先刻まで靴磨きや掃除に 明け暮れていたことが見て取れる。パジャマに薄手のカーディガンを羽織った 楓はしかも裸足だった。 「おまえはそんな恰好で何やっているんだ?」 麻木に詰問され、楓は初めて、新聞から顔を上げ、いかにも不服そうな様子を 見せた。 「見ればわかるでしょ?」 どうやら麻木を待っている内に待ちくたびれ、すっかりへそを曲げてしまった らしい。 「おまえの仲良しはどうした? おまえがこんな馬鹿をしないように見張って くれているはずだが」 「むぎちゃんはね、奥さんの所へ向かっている真っ最中だよ」 楓は立ち上がり、気を取り直したような柔らかい表情を見せた。 「暇なんで電話を掛けたら、ちょうど病院行こうかってところだったんだよ。 それでむぎちゃんは慌てて、すっ飛んで行っちゃったんだ、ちはるぅーって」 妻の陣痛を聞き、居ても立ってもいられなくなった麦田は病床の楓一人を放り 出し、駆け付けてしまったらしい。楓が今、こうして無事にいればこそ、已む を得ないと承知出来るが、これでもし、楓がいなくなってでもいたら、到底、 許せようもない行為だった。 ___オレも随分、勝手な奴だけどな。 真夜気の勧める店で食事を堪能して来た自分に麦田を咎める資格はない。 「制限速度だけは守るように言っておいたけど、無理かもね」 すっかり普段の調子に戻ったらしく、楓はのほほんとした口調だ。そんな彼が 生まれたあの夜の興奮を思い出してしまえば、麦田の行動は責めようもない。 他人の息子より、生まれて来る我が子が気掛かりなのは当然だ。それに何より 麦田はプロではない。好意で友人の側に残っていてくれただけなのだ。 ___不服は言わんさ。 楓は何か言いたそうな顔で麻木を見やり、そして、おそらく腹の中にあるのと はまるで違うことを言った。 「お風呂、入って来る」 麻木が着替えを済ませ、ギョッとするほど綺麗に片付けられた居間に入り、 テレビを見ているとやがて、楓も戻って来た。豪田が恋い焦がれた足が薄赤く 染まっている。言われて、よくよく見れば、確かに見事な曲線でなぞられた足 だ。もしも、大理石で出来ていたなら、それ一つで博物館に陳列されていても おかしくはなさそうな、形の良い足には違いない。だが、切り取りたいとまで 切望するのは明らかに異常であり、まさしく精神異常者特有の欲望と言えるの だろう。足など所詮、立って歩くための道具に過ぎない以上は。 「お茶、淹れるから座っていろ。今日は土産があるんだ」 楓は麻木が指し示した箱を訝しそうに見やった。当然だろう。楓が子供の時分 だって、麻木は手土産なんぞ、持ち帰ったことがない。外食をしなかったし、 たまにまち子の店に行く時には楓も連れて行くのが常だった。同伴すれば土産 を買う必要は生じないのだ。 「学生の頃の知り合いに出会してな。それでちょっとばかり遅くなった」 そう言うと、楓はすたすたと歩いて来てコタツに入ると、素っ気なく一言、 吐き捨てた。 「嘘吐き」 呆気に取られるほど簡単にそう言う。 「あんまり下手な嘘吐くから、怒る気にもなれない」 「何で嘘だと思うんだ?」 「あのエンジン音、独特だからね。一度聞いたら忘れないし、聞き間違えない よ。真夜気って人の、あの緑色の車で送ってもらったんでしょ?」 麻木は自宅前まで送ってもらったわけではない。真夜気は夜中のエンジン音を 気にして、少し離れた所で降ろしてくれた。まさか、そんな遠い音を楓が聞き 取るとは思いもしなかった。 「おまえ、どんな耳しているんだ?」 耳自体が高機能であり、その上で更に聞き耳を立てていたとしか考えられない 地獄耳だ。楓は父親の驚愕には構わず、すました顔で白い紙箱を見やる。白い 側面に短く、三列に並んだ細い金文字を束の間、読んだらしかった。 「変な名前。辞書と絵本とアドレス帳、だって」 楓がすんなりと店名を読んだこと、それは麻木には少しばかり寂しいことでも あった。真夜気が案内してくれた店は住宅街にある小さな一軒家で、客層も子 供連れから老夫婦までと幅広く、肩肘張らずにそれでいて食事を楽しめる良い 店だった。しかし、麻木にはその店名が読めなかった。 |