単に。麻木にいつまでもごねられたくない故の方便だったのかも知れない。 だが、結果的にはやはり、麻木は真夜気の奇妙な注文に添えなかったようだ。 真夜気が期待したような適当な結果を得られなかったのだ。楓は父親の下手な 嘘に騙されはしなかったし、同様に騙されたふりもしなかった。これでは普通 の親子間において、どの程度の嘘ならまかり通るのか、という真夜気の素朴な 疑問を解消する適例になろうはずもなかった。もっとも。自慢の愛車が奏でる エンジン音が自らの求めた他愛無い実験の足を引っ張るなどとは真夜気自身、 考えもしなかったのだろうが。楓はおとなしく手土産の菓子を食べていたが、 ふと思い出したように父親を見やった。 「今日、土田さんに会った?」 「ああ、おまえのマンションで会った。何だ? 用でもあったのか?」 「僕が、じゃなくて。お父さんが出掛けてすぐ電話があったんだ。お父さんに 用があるって。僕のマンションに行っているって答えたら、そうですかって。 即切られた。何で、あの人がお父さんに用があるのかなって思って」 楓はお茶を一口飲み、用心深そうな様子を窺わせながら聞いて来た。 「ねぇ、土田さんがお父さんに何の用だったの?」 「おまえにボディーガードを付けたいって、そんな相談だったよ」 楓はゆっくりと瞬いた。その鈍いような、穏やかすぎる表情の裏には麻木とは レベルの違う高性能機が隠されている。麻木は例え、それが楓を思うがためで あれ、つまらない気を回すのは無駄だともう知っていた。麻木よりも楓の方が はるかに利口なのだ。余計な誤解を生じるだけの遠慮なら、しない方がよほど ましに違いない。この期に及んでもう二度と行き違いを生むだけの遠慮という 名の愚行は重ねたくもなかった。 「事実だけを言うが」 そう気休めの断りは付けてみる。きっとまじない程度にはなるだろう、と。 「オレに警察を辞めて、おまえに張り付いていて欲しいと言われたんだ」 楓は彼のペースで二つ、瞬き、それからその両目に不快な色を浮かべた。彼に してはかなりあからさまな、強い嫌悪だった。 「どうして、そんなことを言うんだろう?」 楓は土田の行為に腹を立てているらしい。 「どうやったら、そんなことを思い付くんだろう? 他に人はいくらでもいる のに。大体、どうして、お父さんじゃなければならないんだ? 今、この時期 にわざわざ辞職してまで?」 楓には自分の定年間際の父親に事実上、退職せよと言いに行った土田の行動が 奇異に思えたようだ。なぜ、麻木でなければならないのか。それ自体、楓には わからないことでもあるらしいのだが。 「どうしてオレなのか。そこのところは簡単な話らしいぞ」 「簡単?」 「オレが番犬なら、おまえは安全だ。オレはおまえの父親だからな」 楓は父親が言わんとすることがとっさに理解出来なかったらしく、キョトンと した顔で麻木を見つめ、それから小さく頷いた。 「ああ、そういう意味、ね」 楓は何だか、気をそがれてしまったようだった。 「どの道、戯言だもの、取り合わなくていいよ。歯磨きして来るね」 コタツの上を手早く、さっと片付けて立ち去る楓の深い心中は麻木には皆目、 わからないままだった。ただ、自分が楓に対し感じ、ずっと抱いて来た不安定 なイメージの根拠は何となく、わかって来たような気はする。楓は高級な記憶 力を礎にする高い知能を持つわりにあまりにも疎いところがあるのだ。彼には 好きと嫌いの区別はあるのだろう。しかし、その好きという感情の濃淡である とか、段階が常人とは明らかに異なっている。いや、いっそ、違いなどないの ではないか。その結果として、自分が父親や伯父夫婦や仲良しの麦田を好きだ と思うそれ以上の、異なる次元の好意があることを実際、肌身では理解出来て いないのではないか? そんな楓にも心に秘めた、好意を寄せる女性はいると言う。しかし、それは 本当に世間一般の思う恋人と呼べる範疇にある人なのだろうか? ___まさか、義姉さんを好きなのと同じレベルなんじゃないよな? そんなことを考えて、麻木は俄かに気が重くなっていた。ポスターの中の楓は いつも無機物のようだった。生活する機能を持たないステンレスのような姿は しかし、販売促進のための戦略の一環だとばかり、麻木は思っていた。実際の 楓は温かく、優しい気質の持ち主なのだ。そう考えるのも近親者としては妥当 なことだったと思う。 だが、もし、楓に愛情の段階が、その強弱や種類の違いが理解出来ていない のだとしたら、その感覚は草や木に近いものと言えるのではないか? 草や木 も自らに愛情を注いでくれる者に対しては愛着を持つと聞く。そんな肯定的な 研究結果を耳にする機会は何度かあったが、そうでないと証明した発表を目に したことは未だない。だが、草や木は例え、草同士であっても特定の誰かだけ を、その者だからこそと限定して愛するという、人間的な機能までは持たない だろう。しかし、それがもし、人間のことだったなら。 ___いいや。別に悪いことじゃない。 他者を皆、公平に捉えることが出来る、崇高な特技だ。そう自分に言い聞かせ ながら、それでも麻木には自分の心底に音も無く噴き出す不安を一掃すること は出来なかった。人間にとって最も大事な感情とはいっそ、他者の中から唯一 人を選り出すことなのではないか、そう思うからだ。 |