back

menu

next

 

 その男は疲れた笑い顔のまま、悲嘆を込めて呟きもしたはずだ。
『本当はあれ、麻木楓流の嫌がらせ発言なのかも、な。オレらみたいな凡人へ
のあてつけなわけ。だって、普通さ、どんなになりたくっても絶対、なれない
ぜ? あんなスーパーミュージシャンになんてさ。目が見えて、音が聞こえる
男なら誰だって、一度は羨ましいって思う境遇に君臨しているんだぜ、あの人
は。だけど、そんなんでも、でも、このオレなら例え、やる気が0でも、この
程度のことはちょろいんだぜって、別次元の、宇宙的な嫌味なのかも知れない
な、あーゆうのって』
男は語っている内にさすがにその発想は誤りと気付いたらしく、同じ顔に苦笑
を浮かべ直した。
『それもないか。いくら何でもシャレじゃなれないよな、あんなスーパー人気
ミュージシャンには、さ。実際、上手いもん、恰好良いし』
朝倉の友人。彼もまた、歌手になりたいと望んだことがあったのだろうか? 
現実の彼はありふれた人生を送っていた。したくもないだろう仕事をし、その
稼ぎで妻子と共に生きている。きっと、彼がそれが人並みの幸せなのだと思う
心境に至るには相応の時間が必要だろうと麻木は考えた。彼は未だ若いのだ。
 それでも将来、きっと彼は己の人生に、歩いて来た道に満足するのだろう。
彼には気遣わしげに夫の様子を窺う妻と、その腕に抱かれた子がいた。麻木に
彼の心配をしてやる道理はない。そう気付き、麻木は今、唯一、自分が案じて
やらなければならない男を見やった。
「辞めて、どうするのか、決めているのか? いや、別にせっつくつもりじゃ
ないが」
「わかっている」
楓はあっさりと頷いた。
「半年休んだら、元のコースに戻るつもり。だから心配しないで」
元のコース。麻木はそれを単純に大学時代の続きと受け取った。そう解釈し、
安心した麻木が頷くと、楓はひどく優しそうな目で父親を見下ろし、続けた。
「お父さんは自分のことだけを考えて。土田さんには僕から断っておくから。
あんな話は忘れて」
「おまえは大丈夫なのか? オレじゃないにしろ、もっと有能な、若い警備を
付ければ」
楓は目を細め、父親の言葉を遮った。
「死ぬ予定は入れていない、って言ったと思うんだけどな。それより、ちゃん
と最後まで仕事、頑張ってよね」
楓はふいに麻木の前、畳に膝を付いた。
「何だ?」
「あのね、子供の頃、お父さんが刑事さんだっていうの、僕の自慢だったんだ
よ。だからこそ、お父さんには最後までちゃんと務めて欲しいんだ、刑事さん
ってお仕事を」
「楓」
「じゃ、そろそろ寝ないとね。おやすみなさい」
ニコリと笑った楓の顔には照れがあったと思う。不慣れな、精一杯の感情表現
が愛おしかった。ただそれだけのことを言うのも、不器用な麻木や楓にとって
は一大事なのだ。
「ああ、おやすみ」
麻木はそう返しながら、ふと自分が楓の手を握ったままでいることに気付く。
これでは楓は身動き出来まい。苦笑し、放してやると、ようやく自由になった
その手と楓は二階へと上がって行った。
 もしかすると、楓は何らかの覚悟を決めたのかも知れない。そして、麻木も
やはり、愚かな自分もそれなりに一日分ずつ、頑張って行くしか術がないのだ
と知る。決して、何かが大きく犯人逮捕へと動いたわけではない。だが、今日
からは頑張ることが出来ると感じられたのだ。楓が言ってくれたこと。それが
麻木には何より嬉しいことだった。やりたくて選んだ仕事ではないという負い
目が胸の奥でずっと根を張っていた。それ故、麻木は幼い子供のためだという
言い訳を作り、更にそれを盾にして、あろうことか大して働きもしなかったの
かも知れない。そうやって自分が場違いな職場にいるという引け目から逃げて
来たのかも知れなかった。
___オレはいつも不甲斐なかった。何かから逃げようとする時、いつも楓を
言い訳の道具に使って来た。あいつが荷物になったことなんてないのに、だ。
 楓はいつも父親の手間を省くことを念頭に置いている子供で、麻木には楓の
ために何かを犠牲にしなければならなかったことなど全くない。実際、カホと
出会う以前から麻木は既にやる気のない刑事であり、捜査の邪魔をしないため
にだけ存在する男だったのだ。何の手柄も大した失敗もなく、期限が来たから
退職するだけの。そんな父親の仕事ぶりは何も知らず、幼い楓はひとりぼっち
でいる寂しさを我慢していたのだ。そう思うと今更ながら申し訳ない気持ちで
いっぱいになる。そんな我慢を強いた上、自分が不甲斐ないことへの言い訳に
まで使っていたのだと思うと、楓が不憫で堪らなかった。
___せめて。残された日々は全力を尽くそう。犯人達を逮捕しさえすれば、
楓の気の病もおいおい癒される。オレも退職金泥棒にならずに済むんだ。
 そう勢い込む内、麻木は何だかいい気持ちになっていた。次第次第に運命は
良い方向へと転がり始めている。そんな気がして、先刻までの不安をすっかり
忘れた。楓の優しさに触れ、麻木は嫌なことは忘れてしまい、自分が未だ何も
把握していないことに気付こうともしていなかったのだ。そして、実際、この
時になっても、麻木は何一つ、気付いていなかった。

 

back

menu

next