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「それでつい、警察にはあんな態度を。だって、もし、そんな、まるで痴情の
もつれで殺人事件が起こったなんて、面白おかしく書き立てられでもしたら。
楓が傷付けられてしまうと、そう思ったんです」
今井はそれまでの暗い顔に苦笑いを浮かべた。何か思い出したことでもあるの
だろう。肉付きの良い頬に笑みが浮かべば、それは苦のない顔へと変わった。
「忘年会の二次会で田岡君に嫌味、言われましてね。よほど、むかついていた
らしいんです、僕のあの態度には」
 事件とは関わりのないことを考えている間にすっかり、今井の緊張は緩んで
しまったようだ。彼は温和な笑顔で、まるで関係のない話をし始めた。
「彼、田岡君ですけど。転職する気はないんですかね」
突然、何を言い出すのかと訝る麻木を今井は目を細め、眺めている。
「突飛な話でしょう? でも、お宅の息子さんが言い出したことなんですよ。
楓が、楓さんが田岡君は売れるって言うんですよね」
「売れるって? まさか歌手としてか? あんた、そんなこと、正気で言って
いるのかね?」
「僕じゃないですよ。楓さんが。僕にはわかりませんよ、そんなこと。でも。
確かに彼、歌は上手いし、キャラクターもユニークだし、面白いとは思います
けどね。だけど、僕には刑事を辞めて挑戦してみろだなんて、そこまで言う程
の確信はありません。あくまでも楓さんが言ったことなんです」
楓が他人の人生を狂わせるようなことを軽はずみな冗談で言うとは思えない。
ならば、どこかに根拠はあるのだろう。しかし、麻木は今までに田岡が歌って
いるところを見たことすらない。判断の下しようがなかった。
___あいつ、歌には自信があるって、さんざん豪語するくせに、ただの一度
も披露しなかったからな。
「署内じゃ、カラオケで歌ったこともないんだ」
「二次会でも渋っていましたよ。でも、楓さんが歌って見せてって言ったら、
案外すんなり歌ったな」
今井は当日の様子を思い出したに違いない。くすくすと小さな笑い声を立てた
のだ。
「何だ?」
「楓さんって、有無を言わせない凄みがありますよね。顔はニコニコ笑って、
いかにも優しそうなのに、その顔で一言、やれって言われちまうと、誰一人、
まともに逆らえない。どう見ても、どう聞いても命令しているような態度でも
話し方でもないのに、洗脳されたみたいになっちまう。まるで催眠術みたいな
んですよね。一瞬だけれど、自分の意志とか判断能力とか奪われてしまうよう
な感じ。あの雰囲気のせいなのかな」
今井は一々、麻木に同意を求めながら話しているようだ。だが、麻木はそんな
内容には承知しかねていた。確かに変わったところはあるものの、楓は普通の
人間なのだ。それを人を操る妖怪のように言って欲しくはなかった。
「まるで、妖怪みたいに言いやがって」
ぼそりと呟いた麻木の不満を今井は聞き取った。
「それ、いいな。そうだ。楓って妖怪ですよね、系統としては」
「あんな間抜けな妖怪はいないだろう」
 麻木はムッとして、強く吐き捨てる。人の息子を、その目前で妖怪呼ばわり
する今井の神経が許せない。田岡の過ぎた冗談は麻木を馬鹿にはしているが、
楓のことは褒めている。父親として腹は立たなかった。だが、今井の言いぐさ
は楓自体を馬鹿にしているのだ。いい気がするはずもなかった。麻木の様子を
見て、慌てて今井は右手を振って否定して見せた。
「悪い意味じゃないんですよ。断じて悪い意味じゃない。決して、楓を悪くは
言っていませんから」
「だったら、どんな意味なんだ?」

 

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