鈍い麻木にもさすがに息子の不満の原因はすぐに思い当たった。彼の記憶力 は抜群だ。少なくとも一度、記憶した事柄に関して、記憶が曖昧になるとか、 あやふやだとか、そういったことは一切、ない。ひけらかしはしないものの、 内心、自分の記憶力に自負は持っていたらしい。麻木は遠回しに言い直した。 「おまえは頭はいいが、とぼけたところがあるから」 「頭がいいんじゃない」 楓はふてた調子で否定する。 「記憶力はいい、それだけだ」 本気でそう思っているらしい楓にとって、頭がいいとは一体、どういう状態を 言うのか、麻木には皆目、見当も付かなかった。きっと、とんでもないレベル での思考力を指しているのだろう。そう思うだけだ。 「ボケちゃったかな」 心配そうな口ぶりにいささか、麻木の方が驚かされる。 「冗談だろ?」 「でも、僕、変なところ、あるでしょ。正直言えば、ずっと心配だったもの、 子供の頃」 「何を、心配していたんだ?」 父親の質問に楓はあっさりと返してくれた。 「僕、人間じゃないんじゃないかなぁって」 麻木は何と返事をして良いものかわからず、黙っていた。あまりにもすらりと 答えるから冗談なのか、本気なのか、そこから判別しなくてはならないのだ。 「別に人間じゃなくても僕は構わないんだけど、お父さんに嫌われたら困るな と思って。だって、お父さん、割り切れないものと生卵と虫が嫌いだもんね」 その通りだ。 麻木は高校時代に母親を亡くした。今、考えてみると、不思議なほど存在の 薄い母親だった。彼女は夫の機嫌ばかりを気にする女で、当然、夫の嫌いな方 の息子には注意を払わなかった。つまり、麻木にとっては同じ家にいるという だけの存在だったがために彼女に関して、この歳になってまで覚えていること は余りにも少ない。ただ、一つ。彼女が迷信深かったその反動で麻木は迷信の 類を、理屈で割り切れないものを嫌悪するようになった。そんな自覚はあるの だ。彼女は隣家、まち子の家の猫達を殊更、可愛がっていた。猫を大事にする と、やがて我が身に良いことが返って来ると信じて。いりこや鰹節の見返りに 一体、何の利益がもたらされたと言うのか、未だ、麻木にはわかりかねたが。 「参考までに。人間じゃなかったら、何だと思っていたんだ?」 楓はすうっと麻木の方へ、目を滑らせるようにして視線を寄こしてくれた。 「さぁ。ただ、めったに死なないような生き物だったら、ちょっと困るなって 心配していただけ」 楓は幼かった自分の心配を懐かしむように目を細める。 「やっぱり、人間は適当なところで死なないとね」 「長生きした方がいいさ」 「長生きって大抵、百まで生きられたら、ラッキーって意味でしょう? それ 以上はいらないよ。誰もいない世界で一人になんか、なりたくない」 「おまえが地上で一人ぼっちになるようなことはない。いつでも、どこにでも 人は生まれ続けるからな」 「解釈が違うよ、お父さん。僕と縁のない人が何万人いたって、意味がない。 お父さんがいてくれなきゃ、僕一人になるのと同じじゃないか?」 麻木は楓の冗談を言っているようでもない真面目な顔を見据えた。 「それじゃあ、おまえはオレに何歳まで生きていろと言うんだ? 一体、幾つ まで生きたら、オレはおまえを満足させてやれるんだ?」 楓はほとんど考える様子は見せず、即答した。 「あとね、六十五年、生きていて欲しいんだ」 麻木はそのやけに具体的だとも、大雑把だとも考えられる数字をまず、頭の中 で反芻してみなければならなかった。これから六十五年。現在の自分の年齢に 加えてみるまでもなく、生存不可能な年数だ。そんな年齢まで生きていられる はずはない。万が一、そんな歳まで生きていられるような医療の進んだ世界に 住んでいたなら。いっそ、人が毎日、望むのは安らかな死だけになってしまう のではないか。人間は生きている限り、生存を望むべきものであり、自らの死 を待ち望むようになってはいけないにも関わらず。 「楓。それは毎日、お百度参りをしたって、叶わない願いだ。無理だ。どんな に縁起を担いでも、巷の迷信とやらを片っ端から信仰しても、な」 「それじゃあ、根拠がないことを皆は信じてやっているの? 無駄だと知って いて?」 |