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「対等じゃないからだ。ミーヤは良くしてくれる。いや、尽くしてくれている
んだ、オレ達皆に。なのにオレは、オレ達は何もしてやれていない。これから
先だって、大した役には立てないんだろう。だったらせめて、記憶の中だけで
も楽にしてやりたい。あいつの苦しみを消してやりたいんだ。過去を、記憶を
塗り変えてやれたら、どんなにいいだろう。何もなかったことにしてやれたら
いいのに」
真夜気は麻木の存在を忘れたように、辛そうに眉間に力を入れた。
・・・
 真夜気が今、何を耐えているのか、麻木には見えない。ただ、優しいミーヤ
には誰にも塗り替えることの出来ない過去があり、それが彼を苛み、苦しめて
いるらしいことを知っただけだった。過去。麻木は密かにため息を吐く。人の
一生を決定付けるほど大きなことではなくとも。些細な昨日今日に連なる日常
に起こり、緩やかに遠ざかって、過去と呼ばれるようになる出来事。それなら
一つ、どうしても拭えず、麻木の胸に引っ掛かっていることがあった。田岡は
警察を辞めるなどという、一大決心を要するだろう大きなことをしでかすよう
なそんな兆候を見せたことがあっただろうか。麻木は手持ちぶたさのあまり、
漠然と考えてみる。 
 突然、来なくなった、そう思った時、田岡は既に職を辞していた。その前日
まで何の気もなさそうに、それでもちゃんと捜査に加わっていたにも関わらず
だ。淡々とした、いつもの様子。見慣れたそこにそんな前触れは影もなかった
はずだ。もし、田岡の言動に不審なものを感じたことがあるとしたら。麻木は
目を瞬かせる。それはもっと以前。楓が自宅で静養をしていた頃。麦田が妻の
出産に駆け付けた直後、あの時なのではないか。
 その夜、麻木が帰宅してみると、真っ暗な中に田岡は座っていた。先に玄関
先で見覚えのある細い皮靴を見、彼が来ていると知っていなかったら、麻木は
悲鳴を上げたかも知れない。田岡は楓の枕元に意を決したように、きっちりと
正座して待っていたのだ。襖を開けた恰好のまま、絶句した麻木を振り仰ぎ、
『どうも』、そう軽く言って立ち上がり、田岡は麻木の突っ立った茶の間へと
入って来た。
『何で、こんな真っ暗な所にいるんだ?』
『明るいと楓さんが熟睡出来ないでしょ? 眩しいじゃないですか?』
それはそうだ。麻木は楓のためにきちんと襖を閉め直した。
『だが、別に、おまえまで真っ暗な中にいなくてもよかったんじゃないか』
田岡は聞かれたことには答えない。ふと、さも感心したように呟いた。
『楓さんってうつ伏せ寝なんですね。あんな寝息も立てずにおとなしく静かに
眠る人って、初めて見ました』
田岡は自分でテレビをつけ、勧められもしないのにコタツに足を入れる。それ
からいかにも居場所を確保したと言うように一息吐くと、おもむろに言った。
『ああ。お茶でいいっすよ』
自分が見舞いに持って来たらしい菓子箱の包装を手荒に破りながら、だ。
『おまえ、いい根性だな。まるっきり自分の家のようなくつろぎようじゃない
か』
『何、言ってんだか』
田岡は付き合いきれないという素振りを作って見せる。
『親切ってもんでしょうが。コーヒーの方がいいかな、いや、やっぱりお茶の
方がいいかもなんて迷わせないんすよ。余計な気を遣わせない気配りってもん
じゃないですか』
『まぁ、そうなんだろうな』
彼の言い分は間違ってはいない。麻木は渋々頷いて、お茶を入れ、戻ってみる
と田岡はテレビを見ながらクッキーを頬ばっていた。
『何でだか、聞かないんですか?』
至極、真面目な顔で田岡が尋ねる。麻木には何のことだかわからなかった。
『何を、だ?』
『オレが楓さんの枕元に、じいっと座っていたこと』

 

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