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「はい。お預かり致します。それではすぐに預り証を」
「いや。いらない。あんたを信用しているから」
そう言われて、小岩井はすぐさま嬉しげな表情を見せた。職務にこれだけ忠実
な男は幸せだ。麻木はそんなことを考えるほど、疲れていた。脚は冷たく凍り
付き、固い棒のようだった。風呂に入ったぐらいではほぐれもしないだろう。
しかし、そんな疲労の塩梅などどうでもいいのだ。ただ、連日、こんな状態に
なるまで歩き回っていても、今日も得るものがなかった。何一つとして、犯人
に繋がる情報は見付けられなかった。その現状が辛く、重苦しく圧し掛かって
いるからこそ、こんなにもきついのだ。
「お疲れの御様子ですが、大丈夫ですか?」
小岩井は遠慮がちにそう尋ねる。
「どうということはない。元々、顔色が悪いんだ」
「さようで」
小岩井は存外、すんなりと納得したようだ。楓も顔色は冴えない方だ。それを
見ていれば、素直に麻木の言葉を信じるのも当然のことかも知れない。
___親子だと信じ込んでいれば、な。
自らまた、新しい墓穴を掘り、落ち込むなど、無意味だ。そう気付き、麻木は
今日は速やかに立ち去ることにした。現直しには場所を替えるのが一番だ。
「また出直すさ。それじゃ」
「失礼致します。お休みなさいませ」
小岩井は深々と頭を下げてくれた。それに少しばかり気を良くし、歩き出した
麻木より一足早く立ち話を終えた大沢がマンションを後にする。結果、一人と
なった小鷺が大沢の背を追うように立ち去ろうとしていた麻木を呼び止めた。
「麻木さん。良かったら、うちでお茶しませんか」
彼は人懐っこい笑みを浮かべ、駆け寄って来た。そんなことをする必要もない
のに。麻木はそう思いながら首を振る。
「いや、結構だ」
「もしかして、僕、嫌われちゃったんでしょうか?」
冗談めかして小鷺が尋ねて来る。
___そんなこと、思ってもいないだろうに。
御曹司で気立ても良く、その上、ハンサムな小鷺を嫌う者など、真夜気くらい
のものだろう。
「別に」
「実はですね。僕、田岡さんに連絡を取りたいんですよ。でも、さすがに警察
署に電話するのは気が引けまして」
「そうだろうな」
麻木は自分でも不機嫌とわかるしかめっ面だが、小鷺はもう一向に怖がる様子
を見せない。こんなに恐ろしげな顔を前に何故、臆したふうもなくニコニコと
笑っていられるのか、麻木の方が不思議に思うくらいだ。尤も小鷺には本来、
麻木に気を遣う理由はない。それで平然としていられるのだろう、麻木はそう
解釈し、自分の疑念に折り合いを付けてみた。大体、今、自分が不機嫌なのは
小鷺のせいではないし、疲労のためばかりでもない。実際に疲れ果ててはいる
ものの、この若者に八つ当たりしなければならないほどではないし、そこまで
大人げないようではこの歳まで生きて来た意味もないだろう。
___そうだ。たまたまなんだ。この男に他意はない。だって、何も知らない
んだからな。
小鷺は偶然にもその名を口にした。そこに何の他意も持っていなかっただろう
小鷺に非があるとは到底、言えない。それを言えば、言い掛かりにもなろう。
そう考え、麻木は僅かばかり事情説明を付け加える気になった。
「署に電話してみたところで、田岡は出んぞ」
「ああ、繋いで頂けないんですか」
小鷺は感心しきりに頷く。
「そうですよね。職員室とは違いますよね。私用の電話なんて、アウトですよ
ね。田岡さんだって、ああ見えて刑事さんですもんね。そうは見えないけど」
くすりと笑う小鷺は無邪気なものだ。しかし、それを見ていて、麻木は自分が
不機嫌な、本当の理由を思い出していた。それに関しては何も考えないように
努めていた。気を張って懸命に過ごしていたのに、小鷺の一言でふいになって
しまったのだ。
___何がおかしいんだ? 田岡だって? ああ見えて刑事さん、だって? 
何だって今、そんな話を持ち出すんだ、この男は。
やはり、今、自分がこうして不愉快な思いをしているのはこの男のせいなので
はないか? 一旦、腹が立ち始めるとすっかり何もかも不愉快な心境に至るの
も致し方ないことなのではないか。結局、小鷺こそが諸悪の根源のような気が
して来る始末だった。
「刑事じゃない。あいつ、退職したんだ。四日前に、プツンと、な」
 小鷺は思いもよらないことに何と言ったものか、すぐには思い付かなかった
らしい。彼にしてははっきりしない表情を浮かべたまま、まごつき、それでも
ゆっくりと残念そうな顔を作った。
「そうなんですか。あんなに健康そうだったのに、それは残念ですね。でも、
やっぱり健康第一ですからね。仕方ないですよね。早く回復するといいですよ
ね」
「病気だとは聞いていない」
事実、田岡は紙切れ一枚、送って来ただけだし、そこには一身上の都合としか
書かれていなかった。
___病気なら、病気と書くだろう、普通。いくら馬鹿でも。
そう腹の中で毒づきながら、麻木は小鷺を見やった。
「で、あんたがあいつに何の用だったんだ?」
「えっ、あの。年末の、二次会の時の写真が出来て、そのままになっているん
で。それを分けて差し上げようかなと思って」
おどおどと説明する小鷺が少しばかり気の毒になる。この間の悪い男のために
麻木はようやく声を和らげた。八つ当たりはやはり、大人のすることではない
はずだ。それに。

 

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