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 他愛無い冗談を言い合い、四六時中、コンビを組んでいて。意識したことは
なかったが、職業柄、究極は命のサポートさえし合うことになるだろう自分達
の間になぜ、こうまで冷たい空気が存在する一瞬があるのだろう。正直、麻木
には想像もつかなかったのだ。そして、いつ、この気まずい沈黙が終わるのか
と心配し始める頃、大抵は誰か、他の同僚に呼ばれたり、机上の電話が鳴った
りと当たり前の日常に気を取られ、二人は何事もなかったように元通りの生活
の中に戻ることになった。そうだからこそ、麻木はその束の間を意識すること
も、いや、おかしいと認識することも出来ずに来たのかも知れない。そして、
その夜のきっかけは楓だった。ふいに襖を開け、現れた楓は眠そうでボンヤリ
と二人を見下ろし、何のことだか麻木にはわからないことを言った。
『田岡さん、したいことをすればいいのに。それじゃ、胃が保たないよ』
寝惚けてでもいたのだろうか。そのまま楓は台所へ歩き去る。残された麻木は
楓が話し掛けた相手、田岡を見た。彼は奇妙なほど無表情で、反応が薄かった
と思う。楓の言うことに思い当たることがあるのか、否か。胃。確かに田岡に
は多食、過食の傾向がある。麻木はコタツの上に視線をやった。どう見ても楓
が食べたとは思えない類の菓子袋が幾つも開封され、空となった状態で残って
いた。
 田岡はすっと立ち上がり、それじゃ、これで、それだけの短い言葉を残し、
帰って行った。翌日、田岡は普段通りだったと思う。それで麻木は特別、気に
していなかったのだが、今、思い返してみると、田岡が辞職するに至る発端、
思い当たる異変はそれしかなかった。しかし、楓は水を飲むために起き出して
来たに過ぎなかったはずだ。その楓にあの夜、自分が口にした内容を今、麻木
が問い質して、意味があるのだろうか。水を飲み、楓は元来た道を夢遊病者の
ように戻って行った。あいつは寝ぼけていたんだ。麻木はそう考える。土台が
精神病気味なのだ。その上、寝惚けていたのでは話にもならないだろう。女の
オバケから解放されただけでも前進というものなのに。
 楓はゆっくりと、しかし、確実に快方に向かっている。それを思うと麻木の
気は軽くなった。田岡のことは信用していた。結果、突然の転職に裏切られた
ようなショックを覚えたが、土台、彼の行動に恨みつらみを言う義理はないの
だ。本意でないことは職にしない方がいい。彼は未だ若い。他に望みがあるの
なら、それを諦めてしまう理由はない。それに田岡の気性を思うと、その内、
新しい環境に慣れたなら、ひょっこり顔を出すに違いなかった。何しろ。麻木
は小さくほくそ笑む。
___オレには楓がついているからな。
妹思いの田岡なら、一度は麻木のつてで、麻木 楓ファンの妹を楓に会わせて
やろうと企むはずだ。その時には嫌味の一つも言ってやればいい。所詮、麻木
の苦悩など、真夜気のそれに比べれば、大した代物ではない。第一、父親が子
供の心配をするのは苦役ではなく、義務であると同時に楽しみでもある。
___今はいささか、きつい有様だが。
麻木はため息を吐く。それでもこの気苦労は自分の生き甲斐であり、存在理由
だと思えた。ここさえ、乗り切れば。犯人を逮捕出来さえすれば。きっと道は
開かれる。そう唱えながら、麻木は六階へ続く階段の、一番下の段に腰掛けて
いる。今の真夜気には麻木のために愛想良く振舞う気力はなさそうだったし、
麻木も若い彼にそんな真似を強いたくなかった。結果、ミーヤの家を出はした
ものの、楓は帰宅しておらず、行く先を失って、麻木はここにボンヤリと座り
続けることになった。間抜けだな。そう自覚しつつ、それでも楓の住まいから
立ち去り難く、居座っていると、エレベーターが上がって来た。
・・・
 小鷺だった。彼は麻木を見とめ、やはり嬉しげな表情に変える。四階の住人
が五階へ来る。それはこの階段を使うつもりだったからだろう。ならば、小鷺
はミーヤに会いに来たのだ。
「真夜気がいるぞ」
小鷺は頷いた。承知していたと言うふうな笑みが整った顔に広がる。
「ええ。どの道、僕は今日、本当はプールの日だったから、会えなかったはず
なんですよ。それに一人っきりでいるよりはずっといいし」
自分がプール通いのために一緒にいられない日なら、真夜気がミーヤの傍らに
いても、構わないらしい。
___だが。

 

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