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 麻木 楓の慌ただしい日常においては。本当に植木を眺め、ぼんやりとして
いるこの時間が唯一、心安らげる時なのだろうか。楓は随分と長い間、じっと
植木を眺めていたが、ふと我に返り、ようやく自分に注がれた父親の訝しげな
視線に気付いたらしい。麻木が半ば、呆れて眺めていた心中を察し、楓は苦笑
したようだ。
「やっぱり、だいぶ変だよね、僕」
「別に。特別、大したことじゃない」
父親の慰めに楓は安心したとも取れない曖昧な笑みを返しただけで再び、その
視線を木に戻す。そして誰に言うともなく、呟いた。
「この頃ね、もう少しで会話、出来るんじゃないかなって思うんだ」
麻木は黙ったまま、湯飲みを口元へ運ぶ。まさか、本気で木と会話が出来ると
信じているわけではないだろう、そう問い正したくもあったが、それはさすが
にためらわれた。楓のためなら、どんなくだらない迷信やあからさまな作り話
も一緒になって頭から信じてやりたい。そう思うものの、麻木の気性では未だ
それは困難を極め、事実、不可能だった。急にそんな柔軟な思考に切り替える
ことなど出来ないし、表面だけ真似てみようと試みる現段階では所詮、下手な
物真似だ。どう言ってみても否定的な口調になりそうで、迂闊に触れることも
ままならなかった。信じてもいないものを嘘でどうにかごまかそうとしてみて
も、その言い回しで余計に楓を傷つけるのではないか。楓の精神状態や神経の
具合を疑い、その上、否定しているような言い方しか麻木には出来そうもない
のだ。少しずつ、楓に感化されて来ているという自覚はある。しかし、それは
遅々たるものであって、麻木の生まれついての気性が変わるには程遠い。ここ
は慌てずに少しずつ、他愛無い会話を持って楓の感覚と自分の常識の間にある
乖離なり、溝なりを根気良く埋めて行くべきだと麻木は考えていた。当たり前
の幸せにありつくには勇気とたゆまぬ努力が必要だ。不慣れでも、望まなくと
も凡庸な会話でも、それをわざわざ積み重ねなくては人はわかり合えないもの
らしいのだ。 
「二月か。もう少しだな」
楓は麻木の存在を忘れているように一人、呟いた。しかし、何を指しての呟き
か、それは麻木にも薄々、測ることは出来る。引退までの残り、一月半少々の
日々さえ、辛いと言っているのか、それとも辞める仕事が名残り惜しいのか、
その口ぶりからは推し量れなかったが。
「お父さんは、元気ないね」
楓は優しそうな顔で父親を見やった。
「どこか、悪いんじゃないよね?」
「ああ。オレは丈夫だ。元気だよ」
「長生きしてね。僕、絶対、一人にはなりたくないんだからね」
 楓は本気で父親の身を案じているらしく、心配そうに麻木を見据えている。
しかし、なぜ、楓はそれほど父親に先立たれることを危惧するのだろうか? 
常識的に父親が子より先に死ぬのは当たり前の事象で、そうでなければ、世間
は不幸と呼ぶだろう。麻木とて、多数派の先例に倣い、子より先に死に、子に
骨を拾って欲しいと願うのだ。
「大体、オレは未だ、死ぬような歳でもないつもりだがな」
「そうだね。遠い、先の話だよね」 
楓はそれきり何も言わなかった。こんなやり取り一つで納得したり、安心した
りといったことが出来るほど、楓が単純な性格だとは思えないし、その思考は
複雑怪奇他ならない男だと思う。だが、麻木もそれ以上の追求はしなかった。
誰にも明日の命の保証はない。それにも関わらず、自分は明日も生きていると
根拠もなく信じ込み、だからこそ、人は今日の苦痛を我慢して生き延びること
が出来る。辛い現実を我慢するにはそれしか術がないのかも知れないが、麻木
と楓もその御多分に漏れなかった。今、己がさらされている目に見えない恐怖
や不安に耐える。それしか明日、幸せになる方法はないのだ。

 狂気の連続殺人犯の姿は一つとして見えて来ない。だが、彼らは実在しない
オバケではなく、誰かの妄想でもない。四つの惨殺死体が明瞭に彼らの存在を
実証しているではないか。紛れもなく彼らと彼らの狂気は存在している。この
世の何処か、しかも、よりにもよって、我が子の近くに。もしかしたら。楓は
日常的に彼らを、内の一人、二人を見知っているのかも知れないし、会話すら
交わしているのかも知れない。気にも留めていない、その男こそが犯人の一人
で、狂気を宿した目でじっと楓を眺めているのかも知れない。その行動は渦を
巻く蚊取り線香のような軌道を描き、瞼に赤い残像を残して行くように麻木は
思う。狂気は赤く、小さくくすぶりながら次々に新たな死体を生み出しつつ、
次第次第に中心へと進んで行く。彼らは決して、直進しない。ゆっくりと時間
をかけ、めざす中心へと進んで行く。その真ん中で待つものが彼ら自身の終焉
なら、どんなにいいだろう。時間切れで彼らの命運の方が尽きたなら。それが
自分の妄想的な希望だと麻木は知っている。渦の中央に彼らが見ているものと
は即ち、楓なのではないか。犯人達はわざわざ好き好んで遠回りをしながら、
楓へと向かっている。麻木にはそう感じられてならなかった。

 

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