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 真夜気は麻木の心に浮かんだ疑問にまるで、実際に音声で問われたかのよう
に当たり前に答える。まぐれ当たりであって欲しい。偶然であればよい。そう
願わなくもないが、彼、真夜気にとってはこれが当たり前なのだ。
「それにさ、考えてみれば、あの二人だって、爺さんほどじゃないにしても、
さほど可愛い女じゃないからな。早死になんかするわけがない。そう思うこと
にしたんだ」
立派な心がけだ。感心している麻木に真夜気はいくらか遠慮しているような、
戸惑いを滲ませた抑えた声で聞いて来た。
「あんたの楓さんって、引退するの?」
一切、公表はしていない。真夜気の声にも確信はない。どこかで小耳に挟んだ
という程度の話らしく、全容を知っているわけではなさそうだ。神様ではない
のだ。楓と今後の予定を聞くような立ち話でもしない限り、そんなことを察知
出来るはずもなかった。際立って勘の良い真夜気なら、長い旅行の予定がある
と聞けば、そこまで勘繰り得るのかも知れないが。
「いや。少し長く休養して、もしかしたら、そのまま引退することになるかも
知れないって、そんな程度の話だ。もう三十も半ばを過ぎたからな。そろそろ
辞め時を探ってもいい時期だろう?」
真夜気が麻木の話をそっくり信じたのか、否かはわからない。しかし、真夜気
は彼らしくもなく、他人事であるにも関わらず、更に重ねて尋ねて来た。
「もし、芸能界を辞めたとしたら、あの人、一体、何をするの? しばらくは
何も考えなくてもいいくらいの蓄えはあるだろうけど」
どうして風変わりな、他人に関心なさそうな真夜気が楓の進路にこうも興味を
示すのか、麻木はこの時、もっと不思議に思ってもよかったのかも知れない。
だが、既に真夜気という風変わりであっても、根の良い青年に親しんでいて、
彼にそう問われることに麻木は不審を抱かなかった。自分と親しいが故に心配
してくれている、そう捉えていたのだ。
「さぁ、な。元々が法学部出だから、その方向に戻れればいいんじゃないかと
は考えているようだ。ブランクがあるから楽じゃないだろうが、全くの素人で
もないわけだし。畑違いの新しい道に入るよりは効率もいいだろう。それに、
親のオレが言うのも何だが、あの記憶力だ。点さえ取ればいい資格なら、取得
には困らないだろうからな」
「ああ。なるほどね。それが賢明だね。人生、地道が一番さ」
真夜気は占いを生業としていると言う自分達一族のことはすっかり棚に上げ、
そう言い切った。彼は安心した様子だったが、麻木には真夜気が安心する理由
など、皆目見当も付かず、何より、今はその理由を推測する必要もなかった。
単純に真夜気は麻木の息子の引退後、残りの長い人生の安泰を喜んでくれた、
そう思ったからだ。
「じゃ、な。また今度、飯に行こうぜ」
気が済んだのか、真夜気はさっさとマンションの裏手へ向かい、麻木は一人、
その場に取り残された恰好となる。まぁ、仕方がない。気を取り直し、麻木も
エレベーターへ向かった。楓を迎えに上がるつもりだったのだが、乗るまでも
なかった。降りて来たエレベーターに楓本人が乗っていたからだ。珍しいこと
もあるものだ。一人なら大抵、階段を使うものなのに。
「どうしたんだ? 身体でも悪いのか?」
楓は苦笑いで麻木の質問を遮った。
「違うよ。階段を下りようと思ったけど、そこで立ち話をしている人達がいた
んだよ。だから、遠慮しただけ。話の邪魔をしちゃ悪いと思って」
以前、小鷺親子がしていたようなこと。納得し、麻木はそれが誰と誰だったの
かは聞かなかった。聞く必要がないし、はしたないことには違いない。それに
そこまでして立ち話の主を確認しておく必要もないだろう。
「おまえ、疲れているんじゃないのか?」
楓は薄い笑みを浮かべ、麻木を見やった。疲れているのも当然だった。
「平気。もう少しだから。立ち止まりたくもないし」
「その、新人さん達の調子はいいのか?」
麻木の質問に楓は意外そうな顔をした。それもそうだろう。麻木が楓の仕事の
内容に触れたことはない。無論、出演しているテレビ番組を見ることくらいは
あったが、コンサートとやらに出向いたことはなく、兄夫婦が毎回、ちゃんと
顔を出すことを考えると、やはり手抜きと言われても致し方ないところだ。
 しかし、もし、麻木が一時も目を離さずにいたら、楓の身の周りの出来事に
一々、口を挟んでいたら、現状は少しなりとも違うものになっていたのだろう
か? その場合の効果の程には懐疑的ではある。しかし、楓の心労はこうまで
酷いものではなかったはずだ。身近に愚痴をこぼす相手がいる。ただそれだけ
のことで人は気楽になれるものなのだ。麻木自身、昨今、そんな相手がいない
からこそ、痛感していることだった。田岡 涼。
___あいつは今頃、何をしているんだろう。

 

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