「新人さんはね、毎日、すっごく頑張っているんだよ。うん、僕とは大違い。 やっぱり、歌手になりたくてなる人は違うね。大変なのに楽しそうなんだ」 楓は麻木の心中の模様とは関係なく、問われたことに答える。楽しそうな様子 を見ても、きっとその通りなのだろう。楓の後継者となるべく新人は一人前に なろうと頑張っているらしい。 ___歌手になりたくてなる人は違う、か。 そう言うなら、自身はなりたくて歌手になったわけではないことになるのでは ないか。そう自分が告白したことに気付いているのか、いないのか。彼は苦の ない顔をしていた。 「下行って、車、取って来るから、そこら辺で待っていて」 「車って、おまえ、運転は辞めたんじゃなかったのか?」 「また乗り始めた。だってタクシー、辛いんだもん。こんなに愛想のない人間 相手にペラペラ話せるなんて、さすがにプロは違うね。無理してくれなくても いいのにね」 妙なことに感心しながら、楓は地下一階のガレージへと下りて行った。 楓の運転する車で自宅へ帰る。ドライブみたいで楽しいね、のんきな調子で 途中、楓がそう言った。彼の精神状態はどうやっても、麻木には見て計れない ものだった。御機嫌なように見えるが、今井が失踪している最中にドライブを 楽しめるような神経の持ち主でもない。麻木の心中を思って演じているのか、 いっそ、自分でも一時だけ忘れようと努めているのか、そんなところだろうと 思う。結局、とりとめもない会話で帰路を楽しんでいるふりを続けるしか二人 に為す術はないのだ。 やがて、話は新人歌手のレコーディング話に戻り、麻木は思いきって、この 機を掴むことにした。楓が歌手を志した理由を知っておきたい。彼が未だ歌手 である内に知っておくべきだと考えたのだ。もしも、楓がしたくもない仕事を 選んだと言うのなら、尚更、その志望動機を聞きたかった。 「なぁ、楓」 「ん?」 「おまえ、どうして歌手になろうと思ったんだ?」 「どうしてって?」 「オレはずっと、おまえは歌手になりたくて、歌手になろうと頑張って、努力 して。それで夢を叶えることが出来たんだとばかり思っていた。でも、さっき の口ぶりじゃ、どうも、そうじゃないような感じがしたから」 「ああ」 楓は軽く頷いた。 「他にやることもなかったし。歌手になるって、凄く困難なことだって聞いた からね。だったら挑戦してみようかなって思ったんだ。まぁ、随分、あっさり スカウトされて、契約することになっちゃって多少、拍子抜けしたけどね」 朝倉の、歌手になりたかったと言う友人には聞かせられないセリフだった。 本当に凡人への嫌がらせで歌手を志望した、と取られても、仕方ない言いぐさ なのだ。悪気で言っているのか、それとも本気そのものなのか。麻木には判定 すらしたくないことだ。どちらにしても、楓の将来を嘱望していたあの教授が 聞いたなら、心臓が止まりかねない発想だろう。教授は彼の物差しで楓の未来 を計り、期待すればこそ、心底、歌手を志望するなどとはと憤っていたのだ。 まさか、チャレンジ精神故に思い立ったことだったとは、さすがの教授も思い 付くまいな。 楓は困難に立ち向かってみたくて、歌手を志したと言う。それなら、今度は 何を理由に法律に携わる世界へ戻ると決めたのだろう。それもまた単に困難を 求めてのことなのだろうか。困難。わざわざ、どうしてそんなものを求めるの か、麻木には超人的とも言える、並外れた記憶力の持ち主である息子の深層は 想像すらしかねた。実際、楓という人間をどの程度、理解しているのか、それ すら、まるでわからない。楓の神経は病んでいるのだという見解と、正気なの ではないかという疑い。その二つは混然としかし、同居している。幻を見るの は精神病の症状だ。だが、楓の告白は間違っていなかった。確かに間北 恵留 と言う年上の恋人がいたし、彼女にふられた後には大して好きでもなかったと 言う二人の恋人がいた。そして、その二人は楓が教えてくれた通り、交通事故 死を遂げている。楓は嘘は吐いていないのだ。ならば、楓が唯一、怖かったと 言う変質者も存在していたことがあり、その男は転落死しているのだろうか。 もし、そんなことまで事実なのだとしたら。楓は疲れ果て、妄想を語る病人で はなくなり、麻木は安堵以上の不安を抱えることになる。もしかしたら。 |