万が一にも、楓が正気なのだとしたら。彼が言っていた『水底にいる』という 女の話までもが単なる妄想ではなくなり、突如として真実味すら帯びて来るの ではないか? もっとも、彼女は最近、楓の夢には現れなくなったらしいが。 しかし、それも楓の言う通り、彼女が自分の家に戻れたからなのだとしたら、 事態は一層、ややこしいものに変わるのではないか? それでは田岡らファン が無責任に信じる麻木 楓霊能者説とやらを裏付けることになるのではないか ? 馬鹿げている。こんなことを思い付くのは真夜気のことが頭に残っている からだ。麻木は自分を納得させるべく試みるが、それ自体が今更、無理なこと だった。真夜気が持っている特殊な能力、有り得ないような勘に似た何らかを 実在する新たな能力と認めてしまった以上、楓におかしな能力があったとして も、嘘だと否定出来ない。Aが実在するのなら、Bの存在も先ずは否定すべき ではないのだ。 ずっと信じて来た。この世に科学的に解析出来ないような不可解な能力も、 現象もない。当然、若干、不可解なところのある楓であっても、普通の人間に ないような特殊な機能など付いていないのだと。その判断の基たる理屈を放棄 するような真似だけはしてはならないのに、麻木は真夜気の特殊な能力を目の 当たりにした。実際に見、いや、触れて、知ってしまったのだ。仕組みは皆目 わからないままだが、真夜気には麻木の思考という、視力で捉えられないもの が見え、それを見て喋ることが出来る。それを現実と認めるなら、楓の妄想も 妄想とは言い切れなかった。ならば、楓には本当に霊的な力が備わっているの だろうか。幽霊と称される何かに接するような。 「さっきから何、考え込んでいるの?」 楓は屈託のない様子でハンドルを握っている。余裕たっぷりの表情だが、教習 所で習った通り、しっかり正面を見ていた。恐らく反則切符を切るようなヘマ をすることはないタイプだろう。そう言えば、以前、楓は交通事故の夢を見る とこぼしていた。トラックに激突され、車ごと崖下に放り出される夢。運転手 の顔まで見える、その夢に苛まれると。 「ねぇ、何で返事してくれないの?」 いくらか不満そうな声に変わっている。それでも麻木は黙っていた。何もかも 聞いて、全て、知ることが今、自分にとってすべきことか、否かを考えるため に。妄想ではないのかも知れない。その可能性が生じた今、楓の神経を疑って いた頃とは別次元の、違う恐怖を味わうことになるのではないか、そう麻木は 恐れ始めたのだ。真夜気は他人だ。その彼に人間離れした能力があるのと、楓 にあるのとでは麻木の心に波立つショックの大きさはまるで違うはずだ。 「お父さん、お父さんってば。何で黙ってんの? そんなにお腹空いているの ?」 普段よりは大きな声だ。温厚なはずの口調もきつくなっていて、麻木は急遽、 腹を括らなければならなかった。 「おまえ」 「何?」 「おまえには本当に変わった能力があるのか?」 「変わった能力? 何、それ?」 「いわゆる、超能力とか、霊能力とか、テレパシーとか、何かそんな」 「は?」 楓は予想外に冷たい反応を見せた。 「何を言っているんだか。僕も大概、おかしいらしいけど、お父さんも御同類 だね。病院に行ったら? お疲れのようですねって、素っ気なく言われるよ。 ふん、今時、皆、疲れているよね。当たり前じゃん。ノルマこなさなきゃ、誰 だって、クビだもん。僕だって、居心地悪いでしょ、普通に」 訪れた病院でよほど嫌な思いでもしたのか、楓は機嫌の悪そうな様子で言う。 話を逸らされているのではないかと、麻木は一先ず疑ってみた。楓には自分が 触れられたくない話から麻木の気を逸らすくらい、造作もないはずだ。その上 で懸命に考える。自分はその企みに乗ってやるべきなのか、否か。正直、わけ がわからない。結局、それ以外に何も答えは出て来なかった。 「さぁ、着いた」 犯人逮捕に結び付く手掛かりは何もない。それでも、にこやかでいられる楓 が、この状態が正常なのだとしたら、彼の神経は元々が怪しいものだったので はないか。いっそ、疲れ果て、狂っている方が麻木にとっては望ましかったの ではないか。 ___馬鹿な。オレは一体、何を考えているんだ。息子の神経を疑うのだけは やめようと、あれほど誓ったのに。何が何でも、オレだけは信じてやらなくて は。 「何やってるの? 早く下りてよ」 先に車を降りた楓が笑い顔でそう言った。 |