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 麻木の口から出た言葉を聞いただけなら、楓が怒るはずはない。麻木は今井
はどこかで酔い潰れているのではないか、としか言っていないのだ。それしき
のことで温和な楓が腹を立てるはずはなかった。だが、現前として楓は怒って
いる。明らかに耳が聞いた言葉ではなく、他の何かに立腹したに違いなかった
し、それは不条理な事態だと思うものの、麻木は自分が得体の知れないものと
向き合っているとは思わなかった。とうに不可解に慣れてしまったのだと自覚
もしていなかったが、不思議に平静ではいられたのだ。
「おまえの気持ちはわかる。いや、わかるつもりだ。だが、もし、今井が奴ら
にさらわれたんだとしたら。かわいそうだが、救出する手段はない。警察には
犯人のめどすら立っていないんだ。助けてやりたくたって、どこにいるのか、
居場所がわからなければ、無理だと理解して欲しい」
楓の呑み込みは早かったと言えるのだろうか。今度は全く違う聞き方に変えて
来た。
「今井さんは、その犯人に連れて行かれたの?」
どう答えればいいのだろう、麻木は迷い、楓の静まった水面のような無表情を
見据える。もう彼の内心に立ち入らずして、会話することなど不可能だ。それ
に本来、踏み込んでこそ、親子と言えるものになれるのかも知れない。麻木と
楓は互いに配慮し、遠慮し合い、結果、ずっと互いの心中、深い所には触れる
ことが出来なかった。それが今日、楓の神経の具合を悪くする結果を招いたに
違いなかった。とにかく今はなりふり構っていられない。自分の方から言葉を
交わす努力をしなくてはならない。せめて問われたことには全て答えなければ
ならない、と麻木は考えた。
「例の奴らに連れて行かれたと断言は出来ない。だが、今井にも、あの四人と
同じ共通点があるんだろう? だったら、消息が確認されるまではそれも疑う
理由があるってことになる」
 楓は反応らしい反応を示さなかった。心当たりがあるのか、ないのか。それ
すらわからない。少なくとも、麻木に見えるような変化は見せなかった。その
整った顔から何を読み取ればいいのか、麻木にはわからない。だが、苦痛の色
を浮かべていないから何も感じていないわけではない。麻木は楓には少しでも
安心して暮らして欲しかった。今、彼を取り囲んでいるのかも知れない危険を
再認識させるわけにはいかなかった。
「今日はマンションに帰れ」
「お父さんも一緒に行くのなら」
いつになく弱く聞こえる声で楓がそう言った。当然だ。最終的に狙われている
のは、彼自身である可能性は未だ、否定出来ないのだ。
「わかった」
楓は一つ、頷いただけだった。

 麻木と共に自宅マンションへ帰宅はしたが、当の楓に長居は出来なかった。
誰かのレコーディングが芳しくないという連絡が入り、出掛けることになった
からだ。
「調子が悪くて相当、苦心しているらしいんだ。ちょっと見て来るよ」
麻木はふと楓がコートを手にしているのを見咎めた。送り迎えされる楓は真冬
でも滅多にコートを着ない。そう言えば、いつも送り迎えしていたあの痩せた
男を最近、見かけていないようだ。
「土田は、あいつはどうしたんだ?」
楓は父親に呼び止められて、振り返る。
「嫌いになったから、他の人とかタクシーを頼んでいる」
「嫌いになった?」
楓は薄い笑みを見せた。
「よくあるんだよ、僕。突然、わけもなく嫌いになるっていうの。気まぐれで
しょ?」
理由もなく、というのは方便だろう。楓は理屈っぽい分、筋の通らないことは
しない。しかし、麻木は追求しなかった。言う必要がないことなのだろうし、
土田が楓の側にいないのは良いことのような気がするからだ。義姉の節子なら
間違いなくそう信じるだろう。随分、以前のことだが、節子は年末の飲み会で
土田に会い、嫌な顔をした。彼女の言い分はこうだった。
『あんな陰気な人が近くにいちゃ、困るわね。楓ちゃんの運気まで落ちちゃう
じゃないの。商売上がったり、の顔よね、あれは』
 根拠があるとも思えない勝手な言いぐさだが、女の勘は当たるらしい。この
際、どんな縁起でも担ぎたい麻木に異存はなかった。
___オレが縁起を担ぐ日が来るなんて、青天の霹靂だけどな。

 

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