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 小岩井は何度も頷いた。余計なリスクを背負わない凡庸な容姿が望ましい。
そう言いながら、それでも、やはり、孫娘にはそれなりの美人に育って欲しい
ものらしい。その祖父らしい気持ちが微笑ましく、麻木も皆と一緒に祝福して
やりたいと思った。それですっかり長居して満腹になり、ようやく席を立った
頃には既に日付も変わっていた。
「こんな時間だ。そろそろお暇するよ。御馳走様でした」
「ええっ」
「もう?」
「まだいいじゃないですか」
「そうですよ。宵の口じゃないですか」
皆で熱心に引き止めてくれたが、身内だけで楽しみたい話もあるはずだ。そう
思い、麻木は断って出て来たのだが、どんな縁なのか、またもや帰宅して来た
と思しき小鷺に出くわすことになった。条件反射のように笑みを浮かべた小鷺
だが、今夜は初めて見る顔が一緒だった。
___誰だ?
 マンションの住人だろうか? 驚くほど大柄で、どこか違和感を感じさせる
男だ。彼の持つ何が違和感の原因となっているのか、探るべく眺める麻木同様
に向こうも不審そうに麻木を見ている。しかし、一応は遠慮しながら見ている
麻木に比べ、明らかに素直過ぎる不躾な視線だと思えた。彼はジロジロと麻木
を眺め、いかにもその正体を疑っている様子なのだ。年頃は三十幾つに見える
ものの、小鷺と変わらない年頃の人間には考えられないような眺め方をする。
少しばかり知恵が足りないのだろうか、麻木の疑問を察したように小鷺が笑顔
で場を繕った。
「ああ。初対面ですよね。彼は大沢さんの弟さんで、達君と言います。達君、
麻木さんだよ。息子さんがこのマンションに住んでいて、遊びに見えたんだ。
麻木さんはね、刑事さんなんだよ。凄いだろ?」
子供に言い聞かせるような話し方だ。面妖な口調だと思えたが、そう言われて
達はもう一度、麻木を見やった。彼が唐突にその顔いっぱいに浮かべた笑みを
見て、麻木にも呑み込めた。つまり、頭の中身は子供なのだ。達は麻木が刑事
だと聞いて、急に親近感を抱いたらしい。口の開け方に特徴のある笑い方その
ものに邪気はないものの、とても歳相応の知能は感じられなかった。
「今日はわざわざ、僕を訪ねて来てくれたんですよ。連絡しておいてくれたら
もっと早く帰ったのに、何も知らせてくれないから。随分、待たせてしまった
みたいで。寒かったよね。かわいそうに」
達はマンション前で小鷺を待って、ずっと突っ立っていたらしい。この寒さの
中を。
「仕事、代わった」
何の前触れもなく達は切り出すが、慣れっこになっているのか、小鷺は困った
素振りは見せなかった。
「へぇ。そうなんだ。以前は別荘の管理人さんをしていたんだよね。で、今度
は何になったのかな?」
幼稚園児相手の話し方だが、達には適切なやり方であるらしい。達は嬉しそう
に答える。
「先生」
そのあまりにも思い掛けない返答に、さすがの小鷺も相槌どころではなかった
ようだ。仰天を顔に出さないよう、懸命に努めているのは隣で呆気に取られて
いる麻木にも見て取れた。少しばかり時間は要したが、それでも小鷺は自然な
笑みで聞き直す。
「先生って、何の先生なのか、教えてくれるよね?」
「漢字、漢字、漢字の先生」
達はそれを自慢したい一心で寒空の下、小鷺を待ち続けていたのだろう。達の
顔に満ちた笑みは勝ち誇ってさえ、見える。その喜び様をもし、裏返しに見る
なら。彼は幼い頃から、よほど惨めな思いをして来たのだと麻木は解釈した。
医者で優秀な兄と生まれつき劣る弟。弾んだ子供のような大きな声と輝くよう
な笑顔は、もしかすると幼少期の彼には見られなかったものかも知れない。
「坊ちゃんと一緒。僕も先生」
「そうだね。一緒だね」
お坊ちゃん育ちの小鷺と同等になったつもりで達は御満悦なのだ。出来の良い
兄より、更に優位に立つ御曹司と同じ先生になれたなら。それは何よりの自慢
に違いなかった。だが、漢字の先生とは何のことだろう。麻木の疑問は小鷺が
すぐに解消してくれた。
「達君は漢字に強いものね。漢字博士なんだよね。知らない字なんてないもの
ね」

 

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